夢で花が届く [家族の話]
少しバタバタとしていたんだけれど、ようやく落ち着いてきたのでほっと一安心。日頃、ちゃんと働いていないから、いざというときの動きが鈍く、いままでより時間がかなりかかってしまって、老化か…? なんて思ってみたり。確かに年々いろんな意味で能率が落ちてきていると思う。そういう自分とも付き合っていかなくてはいけないんだろうな。
さて、そんなこんなで、ここのところめくるめく夢を何度となく見ていた。体は疲れていないのだけれど、頭が疲れ気味のときにめくるめく夢を見ることが多いのだ。
今朝は、その夢の最後になぜか私は実家にいて、その実家に花が届いたのだった。そこで目が覚めた。
「あれ?」と思って、もそもそと起きだして、朝の用意をしたのだけれど、「あれは何だったんだろうなあ?」という思いが消えなかった。
そして、「あっ!」と思い出した。
「今日はお父さんの祥月命日だ!」
すっかり忘れていた^^;
今月は母の誕生日があるので、その日をカレンダーに記してはいたのだけれど、父の命日に印はつけていなかった…。あはは。
夢の中で誰かが花を贈ってくれていなかったら、すぐに気づくことはできなかったと思う。
そして早速、姉にメールして「お線香をあげてね」と頼む。姉はしっかりと覚えていたようで、「お供え物を買ってこなきゃなあって思ってた」と返事が来た。
私が送ったメールには、「花が届いた夢を見て…」という話も付け加えていたのだが、それを読んで姉は「お父さんも夢に出てきた?」と聞いてきた。
「出てこなかったけど、お花は母が贈って来たのかもねえ」と私は返した。
ふと思ったのは、母の誕生日は父の命日の5日後。
父が死んだときのことだが、当然のように父の死んだその5日後に母の誕生日がやってきた。葬儀を出したばかりの家で、母の誕生日を祝うというのはどうしたものだろうと、姉と私は頭を悩ませた。
でも誕生日は誕生日。2人でお花屋さんに向かい、父が母のためにいつも買っていた赤いカーネーションの束を作ってもらって、それを母に贈り、誕生日を祝ったのだった。そのとき母は39歳。
お花屋さんではお店の人が、葬儀を出したばかりの娘たちが赤いカーネーションを買っていくのを怪訝そうに見ていたけれど、なんだか買わなくちゃと思ったんだよね。
父がそうさせたのかもしれない。
そして今朝の花。
夢のなかのことだけど、母が贈ってきたんじゃないかなと思った。
「この子ってば忘れているわ」と思ったんだろうなあ。
ところで、母の遺品を整理していて出てきたもののなかに、父から母への手紙が何通もあった。当初は「へえ~。後生大事の残してたんだ~」と思う程度だったのだけれど、あとからまた思い出したのだ、「toroちゃん。お父さんからの手紙があるはずだけど、私が死んでから読んでね」と母が言っていたのを。
すっかり忘れてた(笑)
その手紙を私はまだ読んではいないのだが、姉は読んだらしい。「結婚する前の2人の様子がわかるよ。うふふ♪」と言っていた。
ま~気が向いたら読もうと思うけれどね。まだいいや、と思っているのだ。
しかし、父の肉筆のものはひとつも残っていないと思っていた。でも字が上手だったという記憶だけは残っていた。そして封書に書かれた文字を見て、やっぱり父の字は上手だったんだ…とわかった。それはちょっとうれしかったよ。
父ちゃ~ん、思い出したったで~!
父が死んで35年が経った。
おしまい。
叔父の葬儀 [家族の話]
前記事で書いた叔父のこと。訃報に接してから、叔父の死因やら、本当に葬儀には参列してもらいたくないのか…ということを、事実としてどうなのかと、叔母や従兄の奥さんに電話して聞いてみた。
すると、「『A子ちゃん(従妹:叔父の娘)は来て欲しくない』なんていうことは言っていなかったみたい」と、従兄の奥さんから教えられた。どうやら長姉が勝手に言ったことらしいのだった。
そして、脳梗塞がどうの、脳卒中がどうの…という噂を聞いていたが、直接の死因は肺炎で、その前にガンを患い1年ほど闘病生活を送っていたようなのだった。
私の母が他界したとき、一応、親戚の誰かが叔父のところへも連絡を入れてくれていたのだが、「具合が悪くてお母さんの葬儀には出られないらしいんだけど」と叔母。「具合が悪いってどこが悪いの?」と聞くと、「言えない」…というようなことを従弟(叔父の息子)は言ったらしい。ここで憶測のみであれこれと叔母と話をしたものであるが……。
そして、母の葬儀には叔父と従弟の連名の弔電一本のみ。
そして、そんなことがあった後の叔父の訃報である。
弔電をもらっていたから、弔電で返す…ということは考えた。それで、弔電は打ったのであるが、「目には目を、歯には歯を…」ではない。やったらやり返すようなことはしたくなかったし、「それはそれ、これはこれ」である。
叔母や従兄の奥さんなどは、「弔電だけ打てばいいんじゃないの?」という意見であったが、別にフツーに親戚なのだから葬儀には参列したかったし、叔父との最後のお別れができるものならしたかった。弔電だけで終わらせたくなかった。
なので、叔父が死んだと聞いたときは一人悶々としたのだった。
叔父家族が何で負い目を感じているのか、引け目を感じているのかはわからない。勝手なことをして、勝手に逆ギレしているようなものなのだから。そりゃ浅ましいことをしたと思う。引け目を感じるくらいならば、やらなきゃよかったのにと思う。それならば反対に、もっと厚顔でいればよかったのに、と思うくらいだ。
確かに親戚一同、叔父の訃報に接して困惑はした。でもやはり兄弟・姉妹であり、親戚である。いろいろな思いはあっても、せめて最後のお別れくらいしたいと思うのが人情ではないか。
始めに戻るが、はっきりと葬儀の参列を拒絶したわけではなく、長姉が勝手に言ったことだとわかったときに、「やっぱり行こう」と私は思った。姉に言えば、姉も行くと言ったので、二人で告別式に参列した。もちろん参列するとなれば包むものは包むし。
行ってみれば、他の親戚も4人ではあるが来ていた。(本気で親戚一同を呼べば、20人以上にはなったのに)。
式場に入ると、参列者は家族・親族も含めて30人にも満たない。大手企業を勤め上げ、それなりに偉くなった叔父であった。であるから、その企業からは2~3人ほどか、、、来てくれていたみたいであるが、それでもその数…。かろうじて、何通かの弔電はあったのであるが。
それにも増して大学時代は野球部で活躍し、それ相応にお友達がいたと思う。でも、そんな感じの人は全くいないのだ。さらにいえば、奥さんの友達、息子や娘の友達が来てもいいのではないかと思うのだが…そういう人もいなかった。
ほとんど呼んでいないようなのだった。
??????
叔父の姿を見れば、痩せこけていて全くに別人になっていた。だからか…。叔父の姿を皆に見せたくなかったから。それで人を呼ばなかったのか。
叔父の意思だったんだろうか。
お葬式というのは、遺された人のものだと私は思っている。逝ってしまった人を偲び、遺された人が最後のお別れをするところだと思っている。そういう意味では叔父の意思が反映されなくてもしょうがないと思うが、遺された人は多くいるはずだ。遺された人は最後のお別れをしたいとフツーに思うのではないか。
そして実際、叔父は生きていなくとも、叔父だって友達や親族に別れを告げたかったんじゃないと思う。
確かに、それは私の勝手な思いであるかもしれないが。
でも……。
祭壇に飾られたお花も少なくて、棺に入れられたお花の数も質素なものだった。母なんて、花だらけで棺の蓋が閉まらないんじゃないの?と思ったくらいだったのに。
そんなものだから、姉と「お花も贈ればよかったね」と話をした。
結局、参列した人数が少ないにも関わらず、叔母(叔父の奥さん)や従弟(叔父の息子)から何も声をかけられず。従弟などは無視しているような感じすらした。唯一、従妹(叔父の娘)だけが何となくではあるが、私たちに気持ちを表わしてくれたようであった。
そして嫌味になってはいけないと思って、姉と私は火葬場へは行かずに帰ってきたのであった。
4月に伯母(伯父の奥さん)、7月に母、11月に叔父。
伯母の葬儀は参列者は少なくても、それは温かいものだったし(伯母が生前に撮ったという遺影がかっこよかった!)、母は母で思いのほか盛大なものになり、賑やかでよかった。
だけど……。
今年はパタパタと逝ってしまったなあ。
皆あっちで会って、仲良くしてくれていればいいなと思う。
最後に、、、。叔父は私の最初の就職を世話してくれた人だった。例のことがある前は、会えば「どうだ、元気にしてるか?」と声をかけてくれる叔父だったのだ。体は大きくて、人のいい、やさしい叔父だったのにな。晩年を汚してしまって、本当に残念である。悲しいことである。……ともあれ、冥福を祈る姪なのであった。
おしまい
MONT BLANCが泣いている [家族の話]
T君のお父さんの形見である。。。と言いつつ、全然使っていなかったであろうと思われる形見である。
MONT BLANCのボールペンとシャーペン。
なぜT君にこのような形見分けがあったかというと、文字や文章を扱う仕事をしているから。義兄や義母は、これが次男に合っていると思ってよこした品。
昨年の9月に義父が他界してから数日の間に、義母は気が狂ったように義父の物を整理し、捨ててしまったということを、昨年書いたと思う。そのなかで渡された形見の品だ。
私にはこのときの形見分けで心にわだかまっていることがある。
それは義父が使っていた時計のいくつかをほとんど義兄が持っていってしまったこと。別に長男が家を継ぐから、義父の遺志だから、と言われればそのとおりで、何も言うこともない。だけど、次男に一言くらいお伺いがあってもよかったのではないかと思うのだ。
義父の形見の一つとして、いつも使っていて身につけていたものを、一つくらい次男に分けてくれてもよかったのではないのだろうかということ。
T君は「別にいいよ」と言うような人だし、別に気しなければいいんだと思うんだけど、なんだか気持ち悪い。
義兄も腕時計が好きなんだろう。「腕時計のいくつかは僕がもらって、ボールペンやシャーペンなんかは使わないから、弟にやればいいや」……そんな風に聴こえてきてしまうのだ。
その義兄が持っていった腕時計の一つには、私たちが義父のために買ってプレゼントした時計が含まれている。義兄のために買ったわけではない。義父のために買ったものだ。
実を言うと、その時計が気になってしょうがない。私自身は義父のためにという思いを込めたものなのに、それが義兄のところにあるかと思うと気持ちが悪くなるのだ。心がザワザワする。
形見を受け取ったときにその時計はどうなったかと私は義母に聞いたのだが、彼女ははっとした顔をした後「お兄ちゃんが持っていった」と一言言った。一応、「はっ」とはしたんだけど……。形見分け以前に、義兄が腕時計をほとんど持っていってしまったんだ。義母もそれでよしとしたんだと思う。
全然、次男であるT君のこと…T君の気持ちを酌んでくれることはなかったんだなと思った一瞬であった。
本当に些細なことではあるんだけど、どうでもいいと言えばそのとおりなんだけど、少しは弟の気持ちを聞いて欲しかったと思う。
私の場合、母は生前に形見分けをした。であるから、何を渡されようが、母の気持ちだろうと思うからそのように理解したし、文句の一つも出てこない。
なんだかね、何をバカみたいにわだかまっているんだろうと思うよ。
それでMONT BLANCのことだ。
形見分けをしてもらって、その品々を紙袋に入れて持って帰ってきた。そして、その紙袋は依然としてそのままに、一年以上寝室横の廊下に置かれている。
T君はどうしたいのだろうな…と思ったけど、とりあえず今日、紙袋を片付けることにした。それで取り出したMONT BLANCである。おそらくほとんど使われていなかったんだろうと思う。ピカピカだ。
たぶん、今後もあまり使われることはないと思う。だって、今ではPCで文字を打つし、普段は500円くらいのシャーペンと三色ボールペンを一体化したもの一本でことが足りるんだもの。
そして義兄は「僕は腕時計、弟はペン」って……。腕時計を使うことはあっても、ペンはほとんど使わないだろうっ!と、マダ~ムは怒ったとか怒らなかったとか。
でもMONT BLANCに罪はない。
生きている人間の浅ましさ。もちろん私もである。なんたって、くだらないわだかまりを今も持ち続けているのだから。
そんなことは、本当はどうでもいいんだけど。
義父とMONT BLANCに敬意を表しつつ、書いてみたくなったお話である。
おしまい。
ばあさんの味、おふくろの味 [家族の話]
昨年1月に他界したT君のお祖母さんの三回忌が行われることになった。
考えてみると、T君のお祖母さんの死から、昨年9月には義父が亡くなり、今年4月には伯母(伯父の奥さん)が亡くなり、7月には母…。結構、怒涛^^; 8月にはこれからいろいろと教えていただきたいと思っていた男性も急逝していて、ある意味衝撃が大きいこの2年間であったが、これで打ち止めになって欲しいと願うばかりである。
それでお祖母さんの話。
悲しいことに、T君の母方の兄弟・姉妹の間でほとんどお祖母さんの思い出話が聞かれない。お通夜の席でも全然出なかったし、昨年末の1周忌のときも全然聞かれなかった。「お祖母さんの逸話は何もないのかっ?」と思ってしまうほどである。果たして三回忌の席ではお祖母さんの思い出話は聞かれるのだろうか。
まあ、そんな風で悲しいことこの上ないのだが、T君と私とで、ふとしたときにお祖母さんの思い出話が出てくる。
何が印象的だったかというと、くしんぼうの私のこと。「お祖母さんはお料理が上手だったよね」と…。
私たちがお祖母さんとの付き合いがあった最後のほうでは、ややボケてきてしまっていたのか、料理がへんてこりんになってしまっていたけど、元気なうちは、私たちをもてなすのが嬉しかったのかもしれない。お料理を作っては待っていてくれた。
私が大阪で働いていたとき、会社からはお祖母さんの家のほうが近かった。帰りにお祖母さんのところへ寄って夕飯が食べられたならば「ラッキー^^」と思ったくらい。美味しかったからなあ。
つまり家庭料理ではあるんだけど、関西風の薄味で上手に作るんだ。魚のお刺身も関西風で、鯛の皮付き(湯引き)のものとか、鱧とか、行商に来るお魚屋さんでいつも買っていたらしいのであるが、それがとても美味しいのだった。お魚屋さんもよかったんだろうけど、お祖母さんも上手にお付き合いしていたんだと思う。だから、いいものを手に入れることができたんだろう。
お祖母さんのお陰で関西風(白身魚)のお刺身を覚えたといっても過言ではない。
あと、菜っ葉の煮びたし。
うちは関東以北の人間ばかりだったから、関西風の料理はほとんどなかった。菜っ葉の煮びたしも食卓にあがらなかった…と記憶する。あったとしたら、「おひたし」。。。似て非なるものなんだな。煮びたしの要は出汁なんだと思う。関西風の出汁だから美味しいんだろう。関東では味わったことがなかった。
それは京都で暮らして7年の間、お祖母さんが作ってくれたことで覚えた料理の一つである。
もう少し元気でいてくれたなら、料理を教えてもらったのにと悔やまれる。
転じて、私の母のこと。
昨年の大晦日の料理が母の最期のおもてなしだったと思う。いつものお客様を招いて、飲んで食べて……。
しかし残念なことに、この頃は味覚障害が始まっていて、ときどきへんてこりんな料理を作ってはいたが、さらにへんてこりんな料理になってしまっていた。「いや、そんな作り方しちゃダメだろう」というようなことがあったけれど、「母が満足するならいいかな」なんてことを思っていたように思う。
その母のおふくろの味というと、奇妙なことに「ホットケーキ」なのだ。
肉じゃがでもなければ、カレーでもない。小さいときによく作ってもらっていたホットケーキがおふくろの味といえるような気がするのだ。(以前、おふくろの味はない…と書いた覚えはあるが)
ホットケーキを焼いてくれるのは、必ず父が出張中だったり、入院中だったりしたとき。朝食は和食でなければならない父の前ではホットケーキを全く焼くことができなかったのだ。トーストですらありえなかった。なので、父が不在のときに焼いてくれたホットケーキの味というのは特別なもので、私にとっては「ハレの日」だった。
父が死んでからは、そんなことは全然なく、親子3人で気ままに暮らすようになってしまったから、「ハレの日」もいつの間にかなくなってしまったけど。
そして、T君。
「もう何年もおふくろの手料理って食べたことがないよ」と言う。
確かに、T君のお母さんは全く料理をしなくなってしまった。面倒くさいということもあるのだろうが、、、。
こればかりはどうのこうのといえないが。
最後に自分のこと。自分の手料理である。
外食が続いたり、出来合いのものばかり買ってくる日が続くと、「やっぱり自分で作った料理が食べたい」となってくる。上手下手でいうと、たぶんフツーの料理の腕である。習ったこともなく、自己流だけど……。年を重ねるとともに、「自分で作ったほうが美味しいや」なんて思うことが多くなってきた。結局のところ、自分で作れば素材の出所は、業者の偽装がない限りははっきりしているから安心ということもある。出来合いのものの素材などは何が使われているかわかったものではないし。
(いや、それより「赤福」の偽装……偽装以前にどれだけ合成保存料が入っていたのか、考えるだけでも恐ろしいんだけど)
出来合いのものを買ってきて食べて気持ちが悪くなる、ということも増えたし(とくにハンバーグはダメ;;)。
ここで、元に戻る。いま思うと、早くにお祖母さんにお料理を教えてもらえばよかったと何度も何度も悔やまれる。誰にも習ったことがないから、せめて「ばあさんの味」を覚えておけばよかったと思うのだ。
もう丸々2年が経つんだなあ~おばあちゃんが死んでから。残念なことだ。
さて、おまけ。
母の形見としてもらったものの中に、私の母方の祖母のものがある。なぜか祖母の形見も私のところに。
あー暗くてわかんないか。
たぶんね、貧乏人の子沢山でお金もそんなになかったと思うんだ。そんな中で買った宝石は、とっても大事にしていたんだろうなと思う。私の祖母は、よく心配をして出てきてくれるからと、母は私に持たせたようであった。(←これはオカルトバナシだけど^^;)
ちなみにT君のお祖母さんも寅年で、私の祖母も寅年。私たちも寅年ときたもんだから、縁起がいいかもねえ。なあんてな。
だいたい、私の祖母はまんまトラさんという名前でしたから。。。タイガーばあちゃん^^
おしまい。
お祖母さんの思い出話でした。
お供えは新聞 [家族の話]
別宅記事かなと思うものの、姉の話だな、どちらかというと。ということでこちらに書く。
母が他界してから、もう毎日のように実家に行くこともなく、用事があるとき…例えば犬の散歩を頼まれたときとかしか行かなくなった。仕事で忙しい姉は、少しずつ家の中の片づけをしているようであるが、行ってみれば家の中はやっぱり母がいたときの様子とほとんど変わりはなく、母はまだ存在しているかのようなのである。
大きな家具…ダイニングテーブルなどの位置を変えれば、イメージは変わるのだろうけれど…。母がいつも座っていた椅子もそのままだし、母が寝ていたベッドもそのまま。
まずは四十九日までは、、、。ということもあるが、不思議な感じなのである。
昨年、義父が亡くなったときは、お葬式直後に、四十九日も待たずに、義母は気が狂ったように居間の家具を買いに走り、すべてを入れ替えた。そしてダイニングテーブルも買い替え、義父が寝ていたベッドはさっさと捨てられた。
これもこれで不思議な光景だった。
考えてみれば、無宗教の我が家では四十九日が過ぎるまで…なんて言っているのに、しっかりととあるお寺さんの檀家でもあり、法事も行う夫の実家では四十九日も待たずに…というところが妙に対照的で面白い。
それでお供えの話だ。
母のベッドはそのままで、今現在は、その横に祭壇のようなものをしつらえてある。母の写真と遺骨、お線香立てとろうそくなどなど。
そして実家に行ったときは、まずは母の部屋に行き、チンと鳴らして手を合わせるのだが…。
ふとベッドを見ると、枕元に必ず新聞が置いてあるのだ。
そう。ほとんど寝たきりになってしまった母の唯一の楽しみは新聞を読むことだったのだ。そしてチラシもスミからスミまで目を通すという念入りさ。
新聞を読んでは世の中を憂い、チラシを見ては「あれ買ってきて、これ買ってきて」(笑)
世の中を憂うより、自分を憂う必要があったんじゃないのか、と思ったほどであったが、実に面白い母であった。
どんな人よりも情報通になっていた母。
そんな母を見てきているからなのだろう。姉は新聞を、今も変わらず母の枕元に置いている。
まるでお供えのように。
そうして私は実家の母の部屋に入るたびに「ふふふ」と笑ってしまうのであった。
おしまい。
散骨をするということ。 [家族の話]
ちょいとほろ酔い加減で書くので、いささか心配な記事ではあるのですが、そのあたりを念頭に置きながら読んでいただければ幸いかと。現在、猫のD君も何をか感じているようで、にゃーにゃーと鳴いておりますが(笑)
カテゴリーを「家族の話」としましたが、ちょっとだけ「プンプン」。
母の散骨の話です。
母は生前から「お墓はいらない」「戒名もいらない」「散骨してくれ」という希望を申しておりました。だから無宗教の葬儀にし、お花だらけにしちまったのですが、、、。
娘の私としてみれば、幾分「ワガママな母だこと」と思っていましたが、お墓を作ったところで私たち姉妹が死んでしまえば墓守をしてくれる人は一人としておらず、もちろん私たち姉妹も子供がいないから死んだと同時に無縁仏の末路。
「そんなことはどうでもいい」と早くから自覚をしていた姉妹であります。姉に言わせれば「自分は象のように死にたい」と言っているし、妹の私は「鳥葬」とたわけたこと言っているし…。
だからこそ、母の希望は叶えなければいけないと、その通りにしようと思っていたわけです。もちろん、その通りにするわけですが。
ところが意外や意外な外野から、物言いがつきました^^;
実家のお隣に暮らしている奥様です。
「toroちゃん、お母さんのお墓はどうするの?」と私にある日、聞いてきました。
「ああ、母は散骨して欲しいと言っていましたから散骨するつもりですけれど」というと……。
「そういえば、お母さんはそんなこと言っていたわねえ。でも、そんな寂しいことは言わないで」
……。
きつい言い方をすれば、お隣に住んではいるものの、私にとっては赤の他人です。「寂しいことは言わないで。。。」と言われても、娘たちは納得づくのこと。母の遺骨はいずれは散骨すると決めています。
思わず、「はあ~~?」と言ってしまう私。本音を言えば、お隣さんの気持ちを理解できません。いや、理解はできるけれど、お隣さんの思いを叶えることはできません。
母の希望と私たち家族の思いが合致すれば、それでいいと思っていますから。
そこで、「遺骨は手元に少しは残すつもりですし、供養には問題ないと思っています」と言うと、
「あ、分骨して残すのね。それならよかった」とお隣さん。
私はといえば「??????」。
別にお隣の奥さんが、母の墓守をしてくれるわけではないだろうし、お墓参りに行くんだって疑わしい。だったら何でそんなことを言うんだろうと…。
そして、従兄の奥さん(Mさん)。
「toroちゃん、四十九日はどうするの?」と私に聞いてきました。
「いや~、無宗教だし、四十九日も何もないから、特に法要も考えていないけど……」と答えました。
すると、「お墓はどうするの?」と聞いてきます。
「ん? 母が望んでいたとおり散骨するけど。たぶん北海道」……と言うと、彼女は泣き出すではありませんか!
どうしていいかわからなくなる私。一番身近にいた娘がそれでいいと思っているんだから、それでいいじゃんと思うのに。
従兄の奥さんの涙に負け…「私たちは、ペンダントに母の遺骨を詰めて持っているつもりだけど、Mさんもそうする?」と聞いてしまいました。
「うん」と答えるMさん。
何で、従兄の奥さんとはいえ、娘の私が気を使わなくてはいけないのか。多大なる疲労感。
ちなみに、母の兄弟・姉妹は私たちと同様にとってもクール。中国という大陸育ちだからでしょうか。
末の叔父にいたっては「もう死んでいるんだからさ」で終わり。(私もそのとおりだと思う)。
母の姉:伯母は「私だったら、中国に散骨してもらいたいなあ」と言い出す始末。
母の妹は「toroちゃんたちの思うとおりにしたらいいと思うよ」と一言。
その他の母の兄弟・姉妹は無関心だし。
そんな家族なのだから、母の思い通りにすればいいと思うし、娘の私たちが納得するのであれば、それでいいと思っているんだけどね。
なかなか世間に理解を得るのは難しいと思ったことでありました。
散骨については、こちらを参照のこと。http://www.toda-sousaijyo.co.jp/sankotu_shizensou.html
また、手元供養のためのグッズなどはこちらを参照すると分かりやすいです。
http://www.ohnoya.co.jp/ やるなあ~、メモ●アルアートの●野屋・・・って感じです。
借金の返済やらなんやらで一銭も残さずに逝った母には「天晴れ!」「お見事!」と言うしかないのですが、妙な外野が出てくると「あ~面倒くさい」とな。
さらに言えばT君も「クールな姉妹だよな」とぽつり。
「はあ~」とため息をつくマダ~ムでありました。
まあね、私とT君は、T君の親戚一同の気持ちを考えて、都心で無宗教でも入れる納骨堂の予約をしておこうかなと思っているんですけどね。それも、本音を言えばどうでもいいんだけど…私は…。
どちらにせよ、夫の先祖代々のお墓には入らないつもり。次男だし。無宗教だし(私が)。子どももいないし。即座に無縁仏だし。
それでとりあえず納得してもらおうと思っておるんですよ。
……そんなことに執着したってしょうがないじゃん、と思うんですけどねえ。。。
おそまつ。
とりあえず残念なご報告 [家族の話]
母が7月14日に息をひきとりました。
享年73歳。よく頑張ったと思います。
とりあえずの残念な報告なのですが、あれやこれやと手続きをしていたら、母の負の遺産が出てきたりして、現在くらくらしているところであります。全く、どーしたらいいんだろう……。
まだまだ頭を悩ます日々が続きそうです。
何の因果か。親子だからしょうがあんめえ^^; [家族の話]
むかーし、書いたことがあったかなあ。。。ちょっと思い出せないのだけど、、、。
実は、私は自分の母親が嫌いだった。いまでも好きではないのだ……カミングアウト。
一所懸命、毎日のように顔を見に行ったり、世話をして、看護(介護)の手伝いをしていたりするけれど、本当のところ母のことは好きになれない。。。まーまー好きな部分はあるけど。愚痴を聞いてくれるときがあるから感謝もしているけど。
でも、なのだ。キレイゴトばかり書いているのも嫌になるし、自画自賛もどうだかなな気分なのである。であるから、本音を記しておこうかとふと思った。
男の兄弟って……。 [家族の話]
T君は2人兄弟の次男なんだけど、男の兄弟って一体どういう関係なのかな、と考えることしばし。
ほとんど会話もなく、どこかへ一緒に遊びに行くということもなく、ましてやわざわざ食事(飲み)に一緒に行くこともなく、とりあえず私と兄嫁さんの相性が悪いということもあるんだろうけれど、全然行動を共にしない。冠婚葬祭のみ。
GW中に私は姉と母の今後のことで話し合おうと、夜一緒に飲みに行ったりしたんだけど、T君と義兄は親のことで話し合おうということを全然しない。
これはこれで非常に困ったことで、「話し合ってちゃんと役割分担してよ」と妻は思うわけだが、それをしてくれない。
う~ん。だからといって嫁同士の話し合いでは、私がバッサバッサと切りまくって結論づけをしてしまうのがオチだから、どうしようもないんだよねえ。
それでね、あとで文句は言いたかないし。
かといってライバル同士かというとそうでもないようだしねえ。就いた職種も全然違うし、、、。
ただまあ言えることは、義父が亡くなってから感じたんだけど、長男にとっての父親というのは「目の上のたんこぶ」なんだなと。
父親と長男という関係は、兄弟よりも意外とライバル関係にあるのかもしれないと思った。
不思議なことに、義父が亡くなってから義兄は実家で自由な振る舞いをするようになった。T君は全く変わらないのだけれど。
母親を独り占めできるようになったからかもしれないな…とチラッと思った。
家族って何だろうと思った瞬間である。
うちの場合は、母が独り者の姉のことを心配し、それでもモタモタすることがあるけれど、「toroちゃんはしっかりしているから心配していない」ときっぱりと言われたりして、「まーそれもそうだけどな」と複雑な気持ちで応えつつも、役割分担ははっきりしているので楽な関係ではある。
あーそうか、信頼関係か…。
ずいぶんと前に「家族だからって仲良くする必要はない」と断言をしたが、それはいまでもそう思っている。
やっぱり相性というものがあるしね。そして信頼関係が築けているかどうかなんだろう。
とりあえず信頼関係はあるらしいT君兄弟ではあるが、女の私には計り知れない、分かり得ない繋がりがあるということは事実のような気がする。
要するに、分かんないんだけどさ。
おしまい。
T君の離煙(縁じゃないよ^^;) [家族の話]
そーいやーこんな話があったんだと、ネタを一つ思い出しました^^; 思い出すも何も、かなり大きな出来事なんだけどね。
T君の「ゲ~ハ~より心臓が先かい!」というお話を以前書きましたが、そのT君が30年近く吸い続けてきたタバコをついに止めました!
どひゃ~
そもそも「狭心症の疑い」であったとき、「お医者さんに引導を渡されたらタバコを止めるよ」としぶしぶ言っていたのであるが、「狭心症」とはっきり診断されるやいなや、やっぱりさすがにどっかーんとお医者さんに引導を渡されたのです。
それでもすぐには止められないようで、ニコチン依存症の怖さなんでしょうが、どこからともなく見つけてきたのは「離煙パイプ」なる商品。これ→http://www.nst21.com/goods/rien/
「こんなので止められるの~?」と疑いの眼差しで見ていた私でしたが、何でも安部譲二さんもこれで離煙したというのだから、
T君は信用をしたらしいのだった。
そして、離煙パイプを買ってきて使い始めて約30日。。。
きっぱり止めましたよ、奴は(笑)
「絶対にタバコは止めない」と豪語していた男が。
相当、心臓の痛みが応えたらしい。心臓が止まっちゃうよ~というのが怖かったのかな~、なんて思うものの。
私としては嬉しい限りですよ。タバコの煙を吸うと気持ち悪くなる体質だったんで、「離婚するとなるとタバコが原因だな」なんて言っていたくらいだし。
でもあんなに止めないと豪語していた男が、きっぱりとタバコを止められたことにはとにかくビックリ。
よかったんだけどね。
でも、タバコを止めて10年くらい経たないと、元の体には戻らないらしい。代償は大きいな。
ともあれ離煙成功、のお話でした。
高額納税者じゃなくなりましたわ、奥様(笑)
おそまつ。