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東慶寺 再び [芸術・文化]

「駈込み女と駆出し男」を観てから、原作を読んでみようと思い、実際に読みました。


東慶寺花だより (文春文庫)

東慶寺花だより (文春文庫)

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/05/10
  • メディア: 文庫


原作と映画とではやはり違うのですが、信次郎さんの語り口や駈込もうとする女性(原作では女性だけではないのだけど)の佇まいなどは、映画でもよく表現されていて、映画を観てから原作を読んで、機会があればもう一度映画を観るというのがいいのではないかと思わせるものでした。

とにかく原作のこの本も面白い。

東慶寺が縁切り寺であるということは昔から知っていましたが、駈込むその背景にあるものは全く知らなかったことでした。

縁切り寺であるということを面白おかしく捉えていただけで、その時代の習慣やしきたりなど全く念頭になく、「へえ~そうなんだ」という程度。

相変わらずの無知無教養ぶりが(笑)

映画の監督をされた原田眞人さんのコメントにこんなことが書かれていました。

「また小説では曖昧になっている時代背景を、天保の改革の真っただ中である天保十二年(1841)に設定した点に関して原田監督は「政府が強権発動したりするという意味で、今は天保の改革の頃と似ていると思います」と持論を展開。「本作では、そのような権力と戦う一般の人たちの心意気を描きたかったので、こういう時代設定にしました。そうした状況の中で虐げられた者たちが連帯し、それぞれが幸せをつかんでいくという話にしたかったのです」と熱い口調で語った。」(映画.com速報より)

確かに、原作のほうでは時代は曖昧です。でも、原田監督が「天保の改革」の頃と設定したことで、東慶寺で起こったことを映画に描くと、確かにピタッと納まるのです。

夫からの離縁状がなければ離婚ができないという時代というだけではなく、さまざまな禁止令が出された天保の改革。日本史が苦手な私は、映画のために天保の改革を調べてしまいましたよ^^;

なんというか、いままさに日本が陥っている社会情勢と、確かに似ていなくもない。

強権的という部分では、本当にね。

政治家が言うことは圧倒的に正しい……みたいな(笑)

もうね、最近の政治家(与党の皆)さんたちは、法律よりも自分たちが強くて正しいと思っているようですから、ホントに倒れそうになります。小学生でもおかしいとわかる頓珍漢なことを、平気で言ってのけるのがまったく怖い。

いやいや、いまの政府やお役人さんたち(天下りの人たちを含む)については、いろいろと語りたいことはあるのですが、長くなるし、あっちこっちに話が飛んでいくのでやめましょう。

で、虐げられた女性の最後の駆け込みどころとして存在した東慶寺。本の最後に井上ひさしさんが「東慶寺とは何だったのか」と話されたものが特別収録されています。

そのなかで、「アジール」について話されているのですが、もともとはギリシャ語で、日本語にすると「隠れ場所、聖域、尊い地域、保護区、治外法権の避難所」といった意味だそうです。

人類の歴史が始まった頃から、きっとそれぞれの地域に隠れ場所があったのではないかとおっしゃっているのですが、東慶寺もそういう役割を担ってきたと。

『「夫と別れたい」という妻たちのためにアジールであった』と井上ひさしさんは言います。

この時代、幕府が公認した女性救済のお寺は2つあったそうです。それは上州にある満徳寺と東慶寺。満徳寺は「縁切り寺」で、東慶寺は「駈け込み寺」だったそうです。

要は離縁したい女性のための「アジール」として機能していたわけですが、この時代に幕府公認でこういう場所があったということが面白く感じますし、「何々令」という法律だか何だかわかりませんが、そこから逃れられる装置を作らなければならないという法律に、そもそも瑕疵があるだろうと思うのですけどね^^;

そういう人類の営みにそぐわない法律には、自然とアジールというものが出来上がるのかもしれないなと、そんなことも思ったり。

映画に出てくる隠れキリシタンとか、「隠れ」と言われるくらいですものね。まさにアジールだと思います。

物語としては、そういう締め付けから始まる人の抵抗を表現するのは面白いわけで、小説にする題材としても「うまい!」と思いました。






実はこれを書き始めたときは、女性が受ける差別について文字を連ねたいと思っていたのですが、ちょっと変わってきてしまいました^^;

確かに幕府がやっていることは明らかに女性差別ですし、小説や映画に女性を蔑視している男性も多く登場します。

でも、小説、映画ともに最後は女性が幸せを掴むように描かれていて、粋な計らいみたいなものもあるし、読後感がよかったのですよ。女性の底力も感じられるその表現。素直に受け止められると思いました。



ただし、「女はいつの時代も強い」と、井上ひさしさん、解説の長部日出雄さんが書いているのですが、井上ひさしさんの言う「女は強い」と長部日出雄さんの言うそれはニュアンスが違うと思いました。

長部日出雄さんはあくまでも小説の解説だからだとは思いますが、結びに『だいぶ前に「戦後強くなったのが女性と靴下」という言葉が流行ったことがあったが、封建的とされる江戸時代からすでに、女性は十分強かったのだ。』と書かれています。う~む。言葉が足らない。ちゃんと小説を読んだのか? 井上ひさしさんの語ったことも読んだのか? という疑惑が残るという(笑)

一方、井上ひさしさんは、『大宅壮一さんの「戦後強くなったのは靴下と女性だ」という名言を聞いたとき、「ちょっと違うな」と思いました。女手一つで男の子三人を抱えて、昭和十四年からずーっとあんなひどい時代を生き抜いてきた母親を見て、「強いなあ」と思いましたし、そういう女性はほかにもたくさんいました。いまでも「大昔からずーっと女性は強かった」と思っています。
江戸時代も、普通に生きている庶民の女性は強い。女性が強いうのは当たり前で、それが正しい世の中のあり方ではないか。いっそ大臣も社長も全部女性になって、男性は家で近所の旦那さんたちとぺちゃくちゃお喋りをしたり、買い物に行ったり、とそういう時代を一回つくったらどうでしょうか。皮肉でもなんでもなくて、女性は男性ほど税金を悪用しないんじゃないか、会社や役所が不始末をしたときの謝り方も女性のほうが上手だろうと考えるからです。」と言っています。

作者と解説者という間柄ではありますが、二人の男性の感じ方の違いが何とも……これこそ皮肉。

本当にね。女性がたくさん社会に出れば世の中は変わると、私は思います。


蜂の一刺しがあったらなあ。



おしまい。
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