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怒怒怒怒 [プンプン]

どどどどと打ってみて、「怒」と怨念の「怨」は似ているなあと。でも怒は奴だけど、怨は夘は身を曲げるという意味だそうで、心が曲がる、うらむを意味するのだとか。うむ、漢和辞典で調べてみました。

それよりどどどどと打っていて、思い出したのはこの詩です。

『どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう』

宮沢賢治の風の又三郎。

本当に一切合財吹き飛ばしてほしいわ。

そんな風に思うことばかりで、昨日は発熱しました(37.2℃)。ま、発熱は関係ありませんが^^;



前回は女性差別のことを書こうかと思ったけれど、「アジール」のことが気になってしまい、そちらに思考が移ってしまって書けませんでした。

そして、日本政府が呆れたことを言い出して、そのことを書こうと思っているのですが、「どっどど……」と考えていたらまた違うことを思いついてしまったようで、なんともはや。

しかし、怒りの宣言だけはしておこうと思います。

ものすごーく怒っているし、今回の日本政府、マスコミ、御用学者、官僚、天下りの役人のことは、一生忘れません。それこそ怨念にまでなりそうな勢い。

安保法案と言われる戦争法案。

女性を差別する、弱者を切り捨てるウヨク組織「日本会議」の存在。

執着し続ける「新国立競技場」のアーチ(←細かい?)。

マスコミにおける情報操作(NHKの会長を更迭できないってなぜ?)。

政治家の恫喝と言える発言。行動。(沖縄に謝れ!)。

幼稚すぎる行動。

↓これを見たときは、本当に倒れそうになりました。



国立大の人文社会系を切り捨てようとする見直し案。

忘れた頃にやってきた国旗国歌法。→人のブログ記事で、しかも1年半ほど前の記事ですが、参考になります。http://blogos.com/article/73128/

昨年の今頃、私も書きまくっていますが、全く思いは変わりません。いまも怒っています。
http://nekotoro.blog.so-net.ne.jp/2014-07-03
http://nekotoro.blog.so-net.ne.jp/2014-07-04
http://nekotoro.blog.so-net.ne.jp/2014-07-07
http://nekotoro.blog.so-net.ne.jp/2014-07-09
http://nekotoro.blog.so-net.ne.jp/2014-07-11
http://nekotoro.blog.so-net.ne.jp/2014-07-14-1

しかし安倍政権がこんなに長く続くとは。「お腹いた~い」で辞めちゃった人が、こんなどうしようもないことを続けるようになるとは。

なんと言っていいのやら。


私はサヨクと言われるのは全く構いません。

心の底から戦争は反対だし、この自然を壊すような行為は許さない。それだけ。


数日前、中学生や高校生が帰宅していく後ろ姿を見て、「この子たちが戦争に行かなければならないような国にしてはいけない」と強く思いました。



派遣労働のこともね、気になっています。まるで格差が広がるように仕向けられているように感じて、「お金を持たぬ者は戦争に行け。兵隊になれ」と。実は、政府(官僚たち)はそうしたいのではないかと。

じわじわと外堀を埋められてきているように思います。社会保障に手を付けるそのやり方も、非常にきな臭い。

そしてお金を持つ者は武器を造り、さらに儲けることを考えるのでしょう。



本当に、風向きを変えて、どっどどと吹き飛ばしてほしいと、考えてしまいます。




おしまい。

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東慶寺 再び [芸術・文化]

「駈込み女と駆出し男」を観てから、原作を読んでみようと思い、実際に読みました。


東慶寺花だより (文春文庫)

東慶寺花だより (文春文庫)

  • 作者: 井上 ひさし
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/05/10
  • メディア: 文庫


原作と映画とではやはり違うのですが、信次郎さんの語り口や駈込もうとする女性(原作では女性だけではないのだけど)の佇まいなどは、映画でもよく表現されていて、映画を観てから原作を読んで、機会があればもう一度映画を観るというのがいいのではないかと思わせるものでした。

とにかく原作のこの本も面白い。

東慶寺が縁切り寺であるということは昔から知っていましたが、駈込むその背景にあるものは全く知らなかったことでした。

縁切り寺であるということを面白おかしく捉えていただけで、その時代の習慣やしきたりなど全く念頭になく、「へえ~そうなんだ」という程度。

相変わらずの無知無教養ぶりが(笑)

映画の監督をされた原田眞人さんのコメントにこんなことが書かれていました。

「また小説では曖昧になっている時代背景を、天保の改革の真っただ中である天保十二年(1841)に設定した点に関して原田監督は「政府が強権発動したりするという意味で、今は天保の改革の頃と似ていると思います」と持論を展開。「本作では、そのような権力と戦う一般の人たちの心意気を描きたかったので、こういう時代設定にしました。そうした状況の中で虐げられた者たちが連帯し、それぞれが幸せをつかんでいくという話にしたかったのです」と熱い口調で語った。」(映画.com速報より)

確かに、原作のほうでは時代は曖昧です。でも、原田監督が「天保の改革」の頃と設定したことで、東慶寺で起こったことを映画に描くと、確かにピタッと納まるのです。

夫からの離縁状がなければ離婚ができないという時代というだけではなく、さまざまな禁止令が出された天保の改革。日本史が苦手な私は、映画のために天保の改革を調べてしまいましたよ^^;

なんというか、いままさに日本が陥っている社会情勢と、確かに似ていなくもない。

強権的という部分では、本当にね。

政治家が言うことは圧倒的に正しい……みたいな(笑)

もうね、最近の政治家(与党の皆)さんたちは、法律よりも自分たちが強くて正しいと思っているようですから、ホントに倒れそうになります。小学生でもおかしいとわかる頓珍漢なことを、平気で言ってのけるのがまったく怖い。

いやいや、いまの政府やお役人さんたち(天下りの人たちを含む)については、いろいろと語りたいことはあるのですが、長くなるし、あっちこっちに話が飛んでいくのでやめましょう。

で、虐げられた女性の最後の駆け込みどころとして存在した東慶寺。本の最後に井上ひさしさんが「東慶寺とは何だったのか」と話されたものが特別収録されています。

そのなかで、「アジール」について話されているのですが、もともとはギリシャ語で、日本語にすると「隠れ場所、聖域、尊い地域、保護区、治外法権の避難所」といった意味だそうです。

人類の歴史が始まった頃から、きっとそれぞれの地域に隠れ場所があったのではないかとおっしゃっているのですが、東慶寺もそういう役割を担ってきたと。

『「夫と別れたい」という妻たちのためにアジールであった』と井上ひさしさんは言います。

この時代、幕府が公認した女性救済のお寺は2つあったそうです。それは上州にある満徳寺と東慶寺。満徳寺は「縁切り寺」で、東慶寺は「駈け込み寺」だったそうです。

要は離縁したい女性のための「アジール」として機能していたわけですが、この時代に幕府公認でこういう場所があったということが面白く感じますし、「何々令」という法律だか何だかわかりませんが、そこから逃れられる装置を作らなければならないという法律に、そもそも瑕疵があるだろうと思うのですけどね^^;

そういう人類の営みにそぐわない法律には、自然とアジールというものが出来上がるのかもしれないなと、そんなことも思ったり。

映画に出てくる隠れキリシタンとか、「隠れ」と言われるくらいですものね。まさにアジールだと思います。

物語としては、そういう締め付けから始まる人の抵抗を表現するのは面白いわけで、小説にする題材としても「うまい!」と思いました。






実はこれを書き始めたときは、女性が受ける差別について文字を連ねたいと思っていたのですが、ちょっと変わってきてしまいました^^;

確かに幕府がやっていることは明らかに女性差別ですし、小説や映画に女性を蔑視している男性も多く登場します。

でも、小説、映画ともに最後は女性が幸せを掴むように描かれていて、粋な計らいみたいなものもあるし、読後感がよかったのですよ。女性の底力も感じられるその表現。素直に受け止められると思いました。



ただし、「女はいつの時代も強い」と、井上ひさしさん、解説の長部日出雄さんが書いているのですが、井上ひさしさんの言う「女は強い」と長部日出雄さんの言うそれはニュアンスが違うと思いました。

長部日出雄さんはあくまでも小説の解説だからだとは思いますが、結びに『だいぶ前に「戦後強くなったのが女性と靴下」という言葉が流行ったことがあったが、封建的とされる江戸時代からすでに、女性は十分強かったのだ。』と書かれています。う~む。言葉が足らない。ちゃんと小説を読んだのか? 井上ひさしさんの語ったことも読んだのか? という疑惑が残るという(笑)

一方、井上ひさしさんは、『大宅壮一さんの「戦後強くなったのは靴下と女性だ」という名言を聞いたとき、「ちょっと違うな」と思いました。女手一つで男の子三人を抱えて、昭和十四年からずーっとあんなひどい時代を生き抜いてきた母親を見て、「強いなあ」と思いましたし、そういう女性はほかにもたくさんいました。いまでも「大昔からずーっと女性は強かった」と思っています。
江戸時代も、普通に生きている庶民の女性は強い。女性が強いうのは当たり前で、それが正しい世の中のあり方ではないか。いっそ大臣も社長も全部女性になって、男性は家で近所の旦那さんたちとぺちゃくちゃお喋りをしたり、買い物に行ったり、とそういう時代を一回つくったらどうでしょうか。皮肉でもなんでもなくて、女性は男性ほど税金を悪用しないんじゃないか、会社や役所が不始末をしたときの謝り方も女性のほうが上手だろうと考えるからです。」と言っています。

作者と解説者という間柄ではありますが、二人の男性の感じ方の違いが何とも……これこそ皮肉。

本当にね。女性がたくさん社会に出れば世の中は変わると、私は思います。


蜂の一刺しがあったらなあ。



おしまい。
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最近読んだ本 [本の感想]

星野源さん、細野晴臣さんの対談本に続き、岡村靖幸さんの「あの娘と、遅刻と、勉強と」を読みました。


岡村靖幸『あの娘と、遅刻と、勉強と』 (TOKYO NEWS MOOK 479号)

岡村靖幸『あの娘と、遅刻と、勉強と』 (TOKYO NEWS MOOK 479号)

  • 作者: 岡村 靖幸
  • 出版社/メーカー: 東京ニュース通信社
  • 発売日: 2015/04/24
  • メディア: ムック


この本を手に取ったとき、「あ、この本も『TV Bros.』の連載をまとめたものか」と、一人で笑ってしまいました。

星野源さんと細野晴臣さんの対談本も『TV Bros.』の連載だったのです。引き寄せられていますね、『TV Bros.』の編集者に(笑)

岡村靖幸さんがデビューした頃のことをよく覚えていて、「なんだ? この歌いっぷりは」と驚きました。

歌がうまいという感じでもなく、見た目もカッコいいとは思えない。でも何だか惹かれてしまう。そんな印象がありました。そして「だいすき」を聞いて、歌っている姿を見たときに、「なんてストレートなんだろう。そしてなんだ? このメロディーは」と思ったのでした。

はっきり言ってものすごく変わっているし、でも目が離せない。

しかし挙動を見ていると、精神的に不安定な人なのではないかとも思っていました。そして案の定、覚せい剤の使用で逮捕されて、さもありなんという状態に。

これで「もう復活はないのか」と思っていたところ、あらあら最近、またいい雰囲気をまとって復活してきているではないですか。

というのは私の感想ですが、そんな風に思っている岡村靖幸さんの対談本です。さまざまな人と対談をしています。

いとうせいこう(以下敬称略)、大根仁、川島小鳥、荒俣宏、水道橋博士、モーリー・ロバートソン、湯山玲子、久保ミツロウ、会田誠、津田大介、渡辺信一郎、矢野顕子、大貫妙子、アレハンドロ・ホドフスキー、高橋幸宏、坂本慎太郎、星野源

内容というと、岡村靖幸さんが発する質問が、あまりぶれないのが面白い。エロとか、孤独とか、寂しさとか……。この人はちゃんと中身を変えずに生きてきた人だと、強く感じる質問なのです。

岡村靖幸さんはオットT君が、嫌いなタイプの人なので、彼の音楽をあまり聴く機会もなく、PVも観る機会がないのですが、こっそりとPCで観たりしているこの頃。

観てみれば、またちゃんとエロとか、孤独とか、質問内容を感じさせるような歌詞であるし、ずっとこの人の中身にあったであろうリズム、メロディーがそのままに楽曲で表されています。すばらしい。


実は最近、「なんで芸術家や文化人が、政治的なことを声高に訴えなくなってきたのだろう」ということを、ずーっと考えてしまっていて、こういうミュージシャンの語ることに、何かその答えが隠されているのではないか。そんなことを思って、私の読書傾向がちょっと変わってきています。

本を読んで見出せるものがあればと。

下世話な話なのですが、いま一番売れているという男性グループのボーカルである人が、スピリチュアル的になってしまっていて、洗脳されているのではないか、ということがありました。

この報道に触れて、ふとこんなことを思ったのです。この人は言いたいこと、歌いたいことができずにいるのではないか。

そう思ったときに、岡村靖幸さんの覚せい剤とか、Xジャパンのボーカリストの洗脳騒ぎとか、誤解を恐れずに述べれば、この人たちは、言いたいこと、歌いたいことが何か抵抗勢力のようなものから封じられてしまって、こういうものに走ってしまったのではなかろうかと思ったのです。

いやいや、実際は本当に誘惑に負けたのだと思っています。己の才能に限界を感じてということもあるでしょう。でも「当たらずといえども遠からじ」なのではないか。

ひとつの仮説です。

本当に昔に比べて、政治的な歌やメッセージソングを耳にすることがなくなってきました。作家が戦争を反対したり、反原発を訴えたりする姿も見えなくなってきました。

なぜなのでしょうか。

いまの政府とマスコミのせいであると、私は思っています。そしてそのスポンサーになる企業も同罪。

さらに言えば、信条に反しているものを見たり聞いたりすると、途端にクレイマーに変身する国民のせい。

要するに、偏ったものへ集まってしまう人の、変容を見ているような気がしてならない。

言論の自由といえば堅苦しいですが、そんな自由も許されないような雰囲気になってきている。私自身はそれがものすごく嫌で、気になって仕方がないのです。

そういう雰囲気が芸術家や作家を追い詰めている結果になっているのではないかと。



そういえば数か月前に、沢田研二さんがライヴのMCで、ISに対する自説を長々と話したという記事に接しました。政治的なことを長々と話すよりも歌ってくれと、見に来ていたファンはそう思って「歌って~!」と叫んだといいます。それに対し、「黙っとれ! 誰かの意見を聞きたいんじゃない。嫌なら帰れ!」と沢田研二さんは返したとか。

これに対し、批判的な人が多いようでした。「老害だ」という人もいます。

でも私は、本人も言っているように、嫌なら帰ればいいと思います。ほかの記事を読むと、どうやら沢田研二さんのライヴではこういうことがよくあることで、知っている人は知っているようです。そうであればなおさらのこと。行かなければいいのです。

山下達郎さんのライヴでも、達郎さんはいつも怒っていますよ(笑) その怒りが曲になったものもあります。やはり最前列にいた人の挙動がひどくて「帰れ!」と言ったこともあるようです。


何が言いたいのかというと、TVやラジオの公共の電波は、もう言論の自由が許されないのかもしれません。でもミュージシャンの活動するライブ会場や、芸術家のためのギャラリー、文化人が表現する場である活字の世界は最後の砦にならないといけないのではないでしょうか。

ここで否定されるようなことがあれば、じゃあどこで表現をすればいいのだ、ということになります。

そういうところすらなくなってしまったら、結局、宗教やクスリに走ってしまうとか、隠遁するとか、地道な生活を選ぶ人もいるでしょうね。

せっかくの才能が台無しです。



恋だ愛だという甘い音楽や若い人たちのグループの音楽で、音楽番組はつまらなくなりました。

社会問題提起するようなドラマも少なくなりました。

政治家のものまねをする芸人もテレビでは見なくなりました。



恋だ愛だと歌われていても、少子化問題はちっとも解決の糸口が見えないというのも皮肉なものです。



もっと言えば、「自分の信条に反するものは受け入れられない」と思う人に、「それは本当に自分の信条なんですか?」と問いたいです。

自分の信条がしっかりとゆるぎないものであるならば、ほかの信条に対して、通常は寛容になれるものです。

揺らいでしまう信条だから、それを壊されたくないから、ほかの信条を攻撃するのだと思います。




そういうことなんですよね。



長くなってしまうので、もとに戻りますが、覚せい剤の事件から復活してもなお、まったく中身の変わらない岡村靖幸さんの本もなかなか面白かったという話でした。


おしまい。
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東慶寺 [芸術・文化]

映画「駈込み女と駆出し男」を観てきました。

前評判がよく、大泉洋ちゃん主演だし、「これは観に行かなくては」と思って、昨日(少しお安い月曜日)に行ってきました。

くしくも恩師のお墓が東慶寺にあります。

先日、男の友人3人とお墓参りに行ってきましたが、そのとき「縁切り寺なんだよな」、「草履を放り込めば駈込みOKなんだっけ?」、「そういうの聞いたことがある」などと言いつつ、さらには……カップルで来ていた人たちを見て、「カップルで来ちゃいけないお寺だよな」と小声でつぶやいたりして、50を過ぎたへんてこりんな4人組は東慶寺を後にしたのでした。

そして、これもご縁と思って観てきた「駈込み女と駆出し男」。井上ひさしさんの「東慶寺花だより」が原作です。


あらすじはあっちこっちで書かれているので割愛します(……LIFE!のカッツアイを思い出してしまった^^;)。

端的に言うと、虐げられた女性たちが東慶寺に駆け込んで救われるという話です。

『駈込み女』が虐げられた女性たち。

『駆出し男』は、大泉洋さん演ずる「中村信次郎」です。なぜ駆出しかというと、見習いの医者であり、戯作者であるから。

駈込むにもいろんな理由があります。基本は離縁なので、男性側の今でいうDVなどを理由としたものが考えられます。ですが、この映画のエピソードとして語られる女性たちの駆け込みの理由はDVだけでなく、花魁の世界からの逃げだったり、両親への思いがあったり。

とくに私の印象に残ったのは、隠れキリシタンである女性のエピソードでした。

東慶寺のなかに、院代である「法秀尼」が籠れる隠し部屋があり、そこに密偵として侵入した女性「玉虫」がマリア像を見つけ、その部屋から動けなくなるというシーン。玉虫の為人がそこでわかるのですが、それまでの描かれ方を観てきて、それは切なくなるものでした。

なぜかマリア像を見ると、心をぐっと握られるような気持ちになってしまうのですが、このシーンを見ただけでもホロリと来てしまって。

江戸時代という時代背景も非常に考えさせられた映画でした。

洋ちゃんの巧妙な語り口も見ものですし、樹木希林さんやキムラ緑子さんの芸達者ぶりも見事でした。

戸田恵梨香さん、満島ひかりさんもいい役者さんです。

なかなかよくできた映画でした。

ただ、言葉でわかりづらい部分があって、都都逸のような語りもあるので、「うん? これはなに?」と思っているうちに話は進んでしまい、見落としたところもあるように思います。

とりあえず原作を読んでみて、もう一回見るというのもいいのかもと思っているところ。

オススメです。



こちらは恩師のお墓。
お墓.jpg

木漏れ日が美しくて、いいところでした。



おしまい。




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