2011年という一年 [日記]
今年はこれで最後の更新になります。要するに仕事納め←仕事か! って(笑)
昨日、お客さんのところへ年末の挨拶に行った帰り、携帯電話のメールを読み返しました。1月から3月は、私はどんなメールを送っていたのだろうかと。
携帯のメールはプライベートにしか使っていないので、従姉や叔母、姉や夫、そして身近な友人だけとのやりとりに限られています。
思い起こすと、311の震災前はなんともいえない閉塞感が充満していて、とても息苦しく、体にピリピリとした何かが刺さるような感じがしていました。そのピリピリに刺激されて、いつか私自身が弾けてしまうのではなかろうかという思いに囚われていたのです。そして見えない澱んだ壁に突き当たったまんま・・・という気がしていました。
メールを読んでいると、地震が起きる前日に叔父が自ら命を絶ち、その死んだという情報が当初は錯綜していて、姉や従姉とメールを送り送られしながら気持ちを落ち着かせようとしていました。その週末には、寝たきりになってしまった伯母を見舞うために、北海道からもう1人の伯母と従姉が上京することになっていて、皆で一緒に食事をしようとそんな計画を立てていた矢先です。
葬儀はどうなるんだ…とか、いつになるんだ…とか。なかなか決まらず、でもお食事会は決行しようと、地震が起きる直前まで、姉と従姉とメールのやりとりをしていました。そのやりとりの最後のメールを送った時間が3月11日14:24。地震が起きる22分前でした。
地震が起きた直後からのメールは内容ががらりと変わっています。
夫T君に「大丈夫か?」というメールをすぐに打ち、それから姉にも大丈夫であったかというメールをしています。
T君からは空メールの返信があり、すぐに大丈夫であることが確認できました。姉からはなかなか返信メールがなく、T君の母親はどこにいるかわからないし、結局自転車で近所を走り回りました。そして姉の無事を確認しながらも、義母は行方知らずで、T君は帰宅困難者と当然の如くなってしまい、私は1人で家でまんじりともしない夜を送ったのでした。
この日ほど、1人で家にいることに不安を感じた夜はなかったと思います。緊急地震速報の警報音が何度となく鳴り響き、TVを見れば津波の様子、被災して途方に暮れている人々の様子が映し出され、暗澹たる気持ちになりました。
mixiで不安を解消するために「不安だあ~」とつぶやいていたら、それを見た飲み友達の男子が固定電話で電話をくれました。小一時間話をしてくれたかなあ。ありがたい電話でした。持つべきものは友…と思いました。
メールをさらに読み返してみると、3月11日当日から福島の原発がヤバイとT君にメールをしています。水素爆発が起こる前であるにもかかわらず、もう原発が危険な状態であるという情報はあったわけです。
その後は、皆さんもご存じのとおりのことが起き、東電、政府、官僚…あと何とか委員会、そしてマスコミがウソをつきまくるということが続きました。
当初、NHKの科学文化部の人たちが「相当に危ない状態だ」と言っていたのが忘れられません。まさにその通りだと思っていたからです。「メルトダウン」という言葉は使わずとも、融けているには変わりはないことを言い続けてくれていましたから。
ところがだんだんとNHKの報道もトーンダウンしてきます。「あれ?」と原発に素人の私でも感じました。
おそらく、私と同じように疑心暗鬼に陥った人は多いと思います。
このブログを読み返すと、「落ち着け!」とか「大丈夫だから!」とか、ずいぶんとその当時は書いていました。それはいまもその通りであると思っています。しかし、報道のトンチンカンさにはひたすら疑問符が浮かぶばかりでした。果たして、これからはどのような行動をしていけばいいのだろうかと思ったのも事実です。
地震に対しては、被災者・被災地のために力を注がなければいけない。でも原発事故という人災はどうしたらいいのか。東電、政府、官僚、マスコミがあまりにもヒドイ情報発信をしだしたので、怒りを覚えるだけでなく、呆れるばかり…。
人の思いと社会のギャップが浮き彫りになったと思いました。それからというもの、私は心因性のめまいに悩まされることになり、身動きができなくなるという…(笑)
不謹慎にも震災以前の閉塞感から、震災直後は「これで解放される」と私は思っていました。諸外国ではさまざまな形で革命が起き始めていたときです。日本ではこういう革命は無理だろうと感じていたところでした。でもこの大震災です。日本にはこういう形で「変われ!」と言われているんだろうと感じました。これは神様の思し召しかもしれないと思ったのも事実です。
犠牲になった方々には申し訳のないことなのですが、日本という国が起こした震災だったんだと、そう私は思いました。
なのですから、大きな犠牲を払ったのですから、変わらなくちゃいけないのに…。
このあと、とてもショックだったのはこぎんさんがこの世を去られたことでした。病状をnakasamaさんから伺ったとき、厳しい状況であるとは感じていました。でも奇跡は起こるかもしれないと祈っていました。
お母様のこと、ご主人のこと、そして自分の病気など、いろんなことを抱えながら、でもいつもいい文章を書いておられたこぎんさん。写真も彼女ならではものでした。
私のブログにコメントをくださる方が減っていくなか、食らいつくようにいつもコメントをくれていたのがこぎんさんでした。辛らつなことを書いてしまう私に、気にせずに自分の意見を書き残してくれるこぎんさんでした。
本当にありがたかったし、私が助けられていました。
残念でなりません。それだけでなく、遺されたご家族のことを考えると胸が締め付けられるようです。
今ごろは、大好きだったマイケルに歌ってもらえているといいな~なんて思っているんですけどね~。
こういう状況下、私自身はサッカーに支えられていたといっても過言ではないという一年でした。
1月のアジア杯の優勝。なでしこジャパンのW杯の優勝。どちらも予選から全部観ていました。その後、オリンピック予選も、W杯予選も観て、ACLも日本のチームが敗退していなくなってしまうまで観て…挙句、ブンデスリーガまで観ていました。
こんなにもサッカーにどっぷり浸かった年はなかったと思います。
やっぱりスポーツはウソをつかないから、観ることができたのだろうなと感じます。
優勝シーンは何度観ても泣けます^^;
女子W杯の決勝を現地で目撃した人たちのカオスっぷりはやばいですよ(笑)
なんだか取りとめもなく書いてしまいましたが……。
大きな災害に見舞われた今年のことは、きっと忘れないと思います。
阪神淡路のときも忘れないようにしなくてはと思いましたが、今年もそうです。
しっかりと起きたことを胸に刻んで、どうしていけばいいのかを考えて生きたいと思っています。
一年間、ありがとうございました。
また来年もよろしくお願いいたします。
皆様におきましてはよい年を迎えられますよう、お祈り申し上げます。
※今年は喪中のハガキが多いとお嘆きの方が多かったみたいですが、うちは昨年より少なかったですよ~。あんまり気にしないほうがいいと思います~。うふふ。そして私は年明けの納車が楽しみ楽しみ♪ では~。
昨日、お客さんのところへ年末の挨拶に行った帰り、携帯電話のメールを読み返しました。1月から3月は、私はどんなメールを送っていたのだろうかと。
携帯のメールはプライベートにしか使っていないので、従姉や叔母、姉や夫、そして身近な友人だけとのやりとりに限られています。
思い起こすと、311の震災前はなんともいえない閉塞感が充満していて、とても息苦しく、体にピリピリとした何かが刺さるような感じがしていました。そのピリピリに刺激されて、いつか私自身が弾けてしまうのではなかろうかという思いに囚われていたのです。そして見えない澱んだ壁に突き当たったまんま・・・という気がしていました。
メールを読んでいると、地震が起きる前日に叔父が自ら命を絶ち、その死んだという情報が当初は錯綜していて、姉や従姉とメールを送り送られしながら気持ちを落ち着かせようとしていました。その週末には、寝たきりになってしまった伯母を見舞うために、北海道からもう1人の伯母と従姉が上京することになっていて、皆で一緒に食事をしようとそんな計画を立てていた矢先です。
葬儀はどうなるんだ…とか、いつになるんだ…とか。なかなか決まらず、でもお食事会は決行しようと、地震が起きる直前まで、姉と従姉とメールのやりとりをしていました。そのやりとりの最後のメールを送った時間が3月11日14:24。地震が起きる22分前でした。
地震が起きた直後からのメールは内容ががらりと変わっています。
夫T君に「大丈夫か?」というメールをすぐに打ち、それから姉にも大丈夫であったかというメールをしています。
T君からは空メールの返信があり、すぐに大丈夫であることが確認できました。姉からはなかなか返信メールがなく、T君の母親はどこにいるかわからないし、結局自転車で近所を走り回りました。そして姉の無事を確認しながらも、義母は行方知らずで、T君は帰宅困難者と当然の如くなってしまい、私は1人で家でまんじりともしない夜を送ったのでした。
この日ほど、1人で家にいることに不安を感じた夜はなかったと思います。緊急地震速報の警報音が何度となく鳴り響き、TVを見れば津波の様子、被災して途方に暮れている人々の様子が映し出され、暗澹たる気持ちになりました。
mixiで不安を解消するために「不安だあ~」とつぶやいていたら、それを見た飲み友達の男子が固定電話で電話をくれました。小一時間話をしてくれたかなあ。ありがたい電話でした。持つべきものは友…と思いました。
メールをさらに読み返してみると、3月11日当日から福島の原発がヤバイとT君にメールをしています。水素爆発が起こる前であるにもかかわらず、もう原発が危険な状態であるという情報はあったわけです。
その後は、皆さんもご存じのとおりのことが起き、東電、政府、官僚…あと何とか委員会、そしてマスコミがウソをつきまくるということが続きました。
当初、NHKの科学文化部の人たちが「相当に危ない状態だ」と言っていたのが忘れられません。まさにその通りだと思っていたからです。「メルトダウン」という言葉は使わずとも、融けているには変わりはないことを言い続けてくれていましたから。
ところがだんだんとNHKの報道もトーンダウンしてきます。「あれ?」と原発に素人の私でも感じました。
おそらく、私と同じように疑心暗鬼に陥った人は多いと思います。
このブログを読み返すと、「落ち着け!」とか「大丈夫だから!」とか、ずいぶんとその当時は書いていました。それはいまもその通りであると思っています。しかし、報道のトンチンカンさにはひたすら疑問符が浮かぶばかりでした。果たして、これからはどのような行動をしていけばいいのだろうかと思ったのも事実です。
地震に対しては、被災者・被災地のために力を注がなければいけない。でも原発事故という人災はどうしたらいいのか。東電、政府、官僚、マスコミがあまりにもヒドイ情報発信をしだしたので、怒りを覚えるだけでなく、呆れるばかり…。
人の思いと社会のギャップが浮き彫りになったと思いました。それからというもの、私は心因性のめまいに悩まされることになり、身動きができなくなるという…(笑)
不謹慎にも震災以前の閉塞感から、震災直後は「これで解放される」と私は思っていました。諸外国ではさまざまな形で革命が起き始めていたときです。日本ではこういう革命は無理だろうと感じていたところでした。でもこの大震災です。日本にはこういう形で「変われ!」と言われているんだろうと感じました。これは神様の思し召しかもしれないと思ったのも事実です。
犠牲になった方々には申し訳のないことなのですが、日本という国が起こした震災だったんだと、そう私は思いました。
なのですから、大きな犠牲を払ったのですから、変わらなくちゃいけないのに…。
このあと、とてもショックだったのはこぎんさんがこの世を去られたことでした。病状をnakasamaさんから伺ったとき、厳しい状況であるとは感じていました。でも奇跡は起こるかもしれないと祈っていました。
お母様のこと、ご主人のこと、そして自分の病気など、いろんなことを抱えながら、でもいつもいい文章を書いておられたこぎんさん。写真も彼女ならではものでした。
私のブログにコメントをくださる方が減っていくなか、食らいつくようにいつもコメントをくれていたのがこぎんさんでした。辛らつなことを書いてしまう私に、気にせずに自分の意見を書き残してくれるこぎんさんでした。
本当にありがたかったし、私が助けられていました。
残念でなりません。それだけでなく、遺されたご家族のことを考えると胸が締め付けられるようです。
今ごろは、大好きだったマイケルに歌ってもらえているといいな~なんて思っているんですけどね~。
こういう状況下、私自身はサッカーに支えられていたといっても過言ではないという一年でした。
1月のアジア杯の優勝。なでしこジャパンのW杯の優勝。どちらも予選から全部観ていました。その後、オリンピック予選も、W杯予選も観て、ACLも日本のチームが敗退していなくなってしまうまで観て…挙句、ブンデスリーガまで観ていました。
こんなにもサッカーにどっぷり浸かった年はなかったと思います。
やっぱりスポーツはウソをつかないから、観ることができたのだろうなと感じます。
優勝シーンは何度観ても泣けます^^;
女子W杯の決勝を現地で目撃した人たちのカオスっぷりはやばいですよ(笑)
なんだか取りとめもなく書いてしまいましたが……。
大きな災害に見舞われた今年のことは、きっと忘れないと思います。
阪神淡路のときも忘れないようにしなくてはと思いましたが、今年もそうです。
しっかりと起きたことを胸に刻んで、どうしていけばいいのかを考えて生きたいと思っています。
一年間、ありがとうございました。
また来年もよろしくお願いいたします。
皆様におきましてはよい年を迎えられますよう、お祈り申し上げます。
※今年は喪中のハガキが多いとお嘆きの方が多かったみたいですが、うちは昨年より少なかったですよ~。あんまり気にしないほうがいいと思います~。うふふ。そして私は年明けの納車が楽しみ楽しみ♪ では~。
生老病死・・・・考えさせられる年でしたね。こぎん姐さん・・・・・思いおこすと涙が;
どうか温泉で心も体もほぐして、良いお年をおむかえ下さい。
初夢はビックなビークル ♡
by Blue☆ (2011-12-28 12:44)
おばちゃんの、今年の漢字一字は「離」・・・ですね。
多くの方が亡くなり、こぎん姐さんも離れて行き、孫達も引越しをして、ちょっぴり離れて行き・・・来年は明るく楽しい年になるといいですね!!
よいお年をお迎えください。
by お好み焼き屋のおばちゃん (2011-12-29 15:11)
昨年のこぎんさんの訃報には本当に驚きましたね。
とても寂しく思っていましたが、
ご家族がたまにブログを更新してくださって、
あのりんごのマークを見つけるとジーンと胸が熱くなります。
今年もよろしくお願いします☆彡
by アン (2012-01-04 23:16)
お返事が遅れて申し訳ありません。
今日が我が家の仕事始めです。やっとPCを立ち上げました^^;
やっぱりこぎん姐さんの逝去は悲しかったですね。
*Blue☆さま*
よい年をお迎えですか? 今年もよろしくお願いいたします。
温泉……行きたいですねえ~…新しい車で…うふふ♪
*お好み焼き屋のおばちゃんさま*
離れているから、くっつくことができるんです!
一度は離れないと、引き合うことはできないですよね~て、
誰かの受け売りのようなことを言っていますが^^;
今年もよろしくお願いいたします。
*アンさま*
こぎん姐さんのりんごは、光って見えますよね。
あの赤い色は本当に印象に残るものです…いまはまだ涙を誘いますが…
こぎん姐さんの残してくれたものは忘れちゃいけないなあ…なんて。
今年もよろしくお願いいたします。
*あんぱんち~さま*
ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
by toro (2012-01-05 09:30)
りんごの姐さまはきっとあちらでもお正月、忙しくしているんでしょうね?^^
おせち料理を作りながら、ずっと思い出していました。
寒川さんの干支ねぶたもきっと気にしてるだろうな〜って思いながら私もやっと初更新いたしました。
今年はゆっくりでもなんでもいいから平和で穏やかな年になるといいですね。
今年もどうぞよろしくおねがいいたします。
by nakasama (2012-01-06 13:54)
*nakasamaさま*
ねえ、姐さん…バタバタと働いていそう…あ、いや…高みの見物だったりして^^;
ご主人のファーちゃんについての更新を拝見して、また涙してしまいました。
でもね、たぶんみんながちゃんとやっていれば、あちらにいる人たちも安心
してくれるでしょうしね…そんなことを思いつつ…。
本当に今年もよろしくです!
by toro (2012-01-06 17:20)
自分のブログもなかなか更新できず、しばらく他の
ブログを読むことから遠ざかっていましたので、
今初めて知りました。
こぎんさん、、、、、、時々コメントを拝見していましたが、、、、、、。
思わず、えっと、声を出してしまいました。
ご冥福をお祈りいたします。
by kaz-i (2012-01-09 18:19)
*kaz-iさま*
そうでしたか…。
こぎんさんの訃報は、ご縁のあった人それぞれに悲しみを覚えたことと
思います。なかなかこのショックからは立ち直れていませんが、この世に
いる限りは、こぎんさんの分も僭越ながら頑張らねばなあ~と思っています。
by toro (2012-01-10 08:33)