中立っていうのはありえない。 [つれづれ]
ここのところ、なぜかオウム真理教関連の本ばかりを読んでしまっていて、何かと考えることがいっぱいある。
森達也氏の一連の書籍は読んでいるのだが、うっかり村上春樹氏の「アンダーグラウンド」とか、その後の「約束された場所で」にも手を出してしまい、「う~ん」と唸るばかりだ。
これらの感想を書きたいと思っている。しかし書けない。考えがまとまらない。
ひとつ訳を言えば、タイトルにも書いた「中立っていうのはありえない」というところにあるんだ。
地下鉄サリン事件について、被害者側、加害者側のそれぞれの考えや意見を読んでみて、「これを中立的に判断しろというのはムリだろ」という思いが湧いてきた。
と同時に、中立でいるというのは、要するに「自分は正しい」と思い込んでいないとムリ、ということだと思った。
「中立であるという正しさ」…いや~もう果たしてこれはあるのだろうかと考えたのだけれど、やっぱりありえないとしか思い至らない。
私なんぞは、ぐらっぐらと左右に振られっぱなしだ。
右に行ったり、左に行ったり……。ストックホルム症候群のような思いも生まれなくはないし、依存的あるいは共依存的な状態に陥ることもある。そこから抜け出して、答えを出せるかといったら、ムリだと思った。
最終的には「人としての正しさ」とか、「好きか嫌いか」を押し出すしかない。
「好きか嫌いか」でいけば、狭量な私ははっきりと判断しやすいのだが、「人としての正しさ」を考えると、それは「神の領域か?」とまで行ってしまう。
となると、やっぱり宗教?
苦笑いするしかない。
オウム真理教という宗教団体が起こした事件について考えることで、ここに至るとは皮肉なものだと思った。
ただ「人としての正しさ」を言えば、殺人なんていうのはもってのほかなわけで、中立もへったくれもなく、罰は受けなければいけないと思う。
とりあえずそれだけははっきりしている。
「好きか嫌いか」で言えば、「嫌い」であるのならば、そこでバッサリと付き合いをなくすとか、関わらないようにするとか、見ないようにするとか、そうすればいいだけで、簡単なものだ。
だけど、「みんながこう言うから」とか、「多数派の意見だから」というだけで、自分の意見や考えまで同じくしようと思うのは間違いだと思っている。そこで一旦立ち止まって、考える必要はあるだろうなと。
そんなことを考えているんだが……。
チュニジアの「ジャスミン革命」や、まだ沈静化しないエジプト騒乱、中東諸国に飛び火しつつあるこの問題は対岸の火ではないと思っている。
日本は民主主義、資本主義国家で、こんなことはないだろうと思っているけれど、国民の怒りというのはくすぶっていると感じている。子ども手当てにしても、消費税や相続税のことにしても何だかヘンテコリン。
「子ども手当て」なんて、宗教関係の政党が言いだしたようなことだろうに、今度は反対に回るなんて、いい加減にしなさいよ! と思う。
餓死している人がいるということが異常事態だと私は思うんだ。一方で牛丼の格安競争なんて、もうこっちもいい加減にやめなさいよ! と思う。
いや、話を戻すが、エジプト騒乱を見聞きしていて思ったのだけど、「民主化、民主化」というのはいい。
それは「独裁」というものが正しいとは思えないから。国民が国を動かすべき。
でも、彼の国は宗教の意識が強い国なのだ。民主化したはいいが、イスラム教が台頭してその国を牛耳ることになったら、それはどうなんだろうと。
オウム真理教が起こした事件についての一連の書籍を読んで、一段と宗教の怖さを覚えている。
それこそ中道的な立場でいるということは可能なのだろうかと思うのだ。
きっと「人としての正しさ」は宗教の教えにあると思っている可能性が高いだろうから、これはとっても危険極まりないと感じている。
ヤバいっすよ。大丈夫かな。
とまあ、考えているうちにやたらと壮大なテーマになってしまいそうなので、ここまでにします、はい。
そのうち本の感想は書ければいいのですが。
さて、数日前の雪ですよ。
うちの車のボンネットに降り積もる雪を面白くて撮っていたのですが、もりもりと育っているみたいで、おかしかったですねえ。
しかし翌日にあっけなく融けてしまって、さすが関東平野の雪だわ。
それからこれも数日前に仕事でふらふらしていたときに撮った写真。
安田侃さんの作品ですが、「ISHINKI 意心帰」。東京国際フォーラムにある作品です。
携帯で写真を撮っていたら、「あれ? こんなところにこんな石があったっけ?」と、おそらく近所の会社員2人がつぶやいていました。
それだけ、違和感なく鎮座しているんですね。
何気ない風景に溶け込める安田侃さんの作品って、やっぱりいいなあと思ったのでした。
右に行ったり左に行ったりしながら角が取れて、こんな石のようになれたらいいのにね。
おしまい。
森達也氏の一連の書籍は読んでいるのだが、うっかり村上春樹氏の「アンダーグラウンド」とか、その後の「約束された場所で」にも手を出してしまい、「う~ん」と唸るばかりだ。
これらの感想を書きたいと思っている。しかし書けない。考えがまとまらない。
ひとつ訳を言えば、タイトルにも書いた「中立っていうのはありえない」というところにあるんだ。
地下鉄サリン事件について、被害者側、加害者側のそれぞれの考えや意見を読んでみて、「これを中立的に判断しろというのはムリだろ」という思いが湧いてきた。
と同時に、中立でいるというのは、要するに「自分は正しい」と思い込んでいないとムリ、ということだと思った。
「中立であるという正しさ」…いや~もう果たしてこれはあるのだろうかと考えたのだけれど、やっぱりありえないとしか思い至らない。
私なんぞは、ぐらっぐらと左右に振られっぱなしだ。
右に行ったり、左に行ったり……。ストックホルム症候群のような思いも生まれなくはないし、依存的あるいは共依存的な状態に陥ることもある。そこから抜け出して、答えを出せるかといったら、ムリだと思った。
最終的には「人としての正しさ」とか、「好きか嫌いか」を押し出すしかない。
「好きか嫌いか」でいけば、狭量な私ははっきりと判断しやすいのだが、「人としての正しさ」を考えると、それは「神の領域か?」とまで行ってしまう。
となると、やっぱり宗教?
苦笑いするしかない。
オウム真理教という宗教団体が起こした事件について考えることで、ここに至るとは皮肉なものだと思った。
ただ「人としての正しさ」を言えば、殺人なんていうのはもってのほかなわけで、中立もへったくれもなく、罰は受けなければいけないと思う。
とりあえずそれだけははっきりしている。
「好きか嫌いか」で言えば、「嫌い」であるのならば、そこでバッサリと付き合いをなくすとか、関わらないようにするとか、見ないようにするとか、そうすればいいだけで、簡単なものだ。
だけど、「みんながこう言うから」とか、「多数派の意見だから」というだけで、自分の意見や考えまで同じくしようと思うのは間違いだと思っている。そこで一旦立ち止まって、考える必要はあるだろうなと。
そんなことを考えているんだが……。
チュニジアの「ジャスミン革命」や、まだ沈静化しないエジプト騒乱、中東諸国に飛び火しつつあるこの問題は対岸の火ではないと思っている。
日本は民主主義、資本主義国家で、こんなことはないだろうと思っているけれど、国民の怒りというのはくすぶっていると感じている。子ども手当てにしても、消費税や相続税のことにしても何だかヘンテコリン。
「子ども手当て」なんて、宗教関係の政党が言いだしたようなことだろうに、今度は反対に回るなんて、いい加減にしなさいよ! と思う。
餓死している人がいるということが異常事態だと私は思うんだ。一方で牛丼の格安競争なんて、もうこっちもいい加減にやめなさいよ! と思う。
いや、話を戻すが、エジプト騒乱を見聞きしていて思ったのだけど、「民主化、民主化」というのはいい。
それは「独裁」というものが正しいとは思えないから。国民が国を動かすべき。
でも、彼の国は宗教の意識が強い国なのだ。民主化したはいいが、イスラム教が台頭してその国を牛耳ることになったら、それはどうなんだろうと。
オウム真理教が起こした事件についての一連の書籍を読んで、一段と宗教の怖さを覚えている。
それこそ中道的な立場でいるということは可能なのだろうかと思うのだ。
きっと「人としての正しさ」は宗教の教えにあると思っている可能性が高いだろうから、これはとっても危険極まりないと感じている。
ヤバいっすよ。大丈夫かな。
とまあ、考えているうちにやたらと壮大なテーマになってしまいそうなので、ここまでにします、はい。
そのうち本の感想は書ければいいのですが。
さて、数日前の雪ですよ。
うちの車のボンネットに降り積もる雪を面白くて撮っていたのですが、もりもりと育っているみたいで、おかしかったですねえ。
しかし翌日にあっけなく融けてしまって、さすが関東平野の雪だわ。
それからこれも数日前に仕事でふらふらしていたときに撮った写真。
安田侃さんの作品ですが、「ISHINKI 意心帰」。東京国際フォーラムにある作品です。
携帯で写真を撮っていたら、「あれ? こんなところにこんな石があったっけ?」と、おそらく近所の会社員2人がつぶやいていました。
それだけ、違和感なく鎮座しているんですね。
何気ない風景に溶け込める安田侃さんの作品って、やっぱりいいなあと思ったのでした。
右に行ったり左に行ったりしながら角が取れて、こんな石のようになれたらいいのにね。
おしまい。
う〜ん、「アンダーグラウンド」はそういう勢いで読まないと読めないかも?
冒頭読んで、バタバタと忙しくしていたらすっかり読む気がなくなってしまいましたのよ・・・あはは。^^;
おっしゃる通りだと思います。
中立というか?バランスを保つことが大事なことなんだろうな〜と。
昔に比べたら自分も少しは反対側の立場になって物事を考えるようになったかな?とは思うんですが・・・
最近友人がスピリチュアルな方にどっぷり走っていて、物事を判断する時の指針にするのはいいかもしれないけど、あまりにも生活になりつつあるようで、何だか宗教のようだぞ・・・と感じています。
このままでは良くないんじゃないか?と思いつつもそれを否定する言葉を持っていない自分であります。(ー”ー)う〜ん。
by nakasama (2011-02-21 09:58)
*nakasamaさま*
中立というより「公平性」…ていったらいいのかなあ、、、。
でも、「公(おおやけ)」という文字は何となく抵抗感があり、悩むところです。
宗教は、本当に難しいです。必要性はあると思っていますが、「信じる」という
ことに頼っている感じにつかみどころのなさを感じるし、「信じすぎる」ことは
人を盲目的にするし…。
ある意味では薬にもなるし、ある意味では毒にもなるし…。
たぶんなんですけどねえ、村上春樹氏の「1Q84」はこれを経ての小説なのでは
と予想しています。
「アンダーグラウンド」が読めたら、1Q84を読もうかななんて^^;
流行完全無視ですわ~(笑)
by toro (2011-02-22 08:29)