正しさと独善 [つれづれ]
週刊文春の中村うさぎさんの連載『さすらいの女王』で、中村うさぎさんが「正しさが独善になっている」ということを書いていて、それを読んで「あ~」と心の中で絶句してしまった^^;
「正しさの人は、他人を幸せにできない」という町山智浩さんの言葉を引用しているんだけど、正しさという独善は他人を幸せにしないんだよ…ということらしいのだ。
それを自分にあてはめてみたら、「そうだよな~」と妙に納得した。
よく「物を断定的に言う」とか、ほとんど「これはこうだから」と他の人の意見を取り入れる余裕のない言葉を発してしまって、そこで話を終えてしまうことがある。
バッサバッサと言葉で人を斬るというやつですな。
何か事を始めるにしても、自分で何でもやってしまった方が早いから、これまたバッサバッサと斬るように行動をしてしまって、全然他人を仲間に招き入れない自分がいるわけで、これは他人を幸せにしていないんだろうと思う。
…そういうことになる。
「どんだけ自分を正しいと思っているんだ、あたし!」とツッコミを入れている女王様(中村うさぎさん)が可笑しくって。だけど自覚しているのだから、それはそれでいいんじゃないかなとも思う。
自分もそう言うと正当化しているわけになるんだけど(笑)
「世間の規範とは関係なく『自分ルール』と呼ぶべき独特の『正しさ』の基準があって、その『正しさ』に己が殉じるのは当然としても、その基準を他者にも当てはめて裁いてしまうという傾向が強いのである」と中村うさぎさんは言う。
でもさ、これは誰もが知らず知らずにやっていることだと思うけれどね。
問題は、自分が感じて、自分の頭で考えて、そして出来上がった「自分ルール」なのか。それとも他者が作り上げた、いわゆるマジョリティの人々の総意になっているような意見(それを常識というのだろうけれど)で出来上がった「自分ルール」なのか。
その違いというだけで、「自分ルール」というのは誰にも存在すると思う。
ただ「常識的であること」と、「独善的であること」が、幸か不幸かのどちらかになってしまうんだわ。
だけどね、「常識=正しさ」かと言ったら、??? となる。
常識なんて本当は移ろいやすいものだと思うし。
であれば、独善的であることを自分ルールに用いているということは揺るぎないものにもなる可能性もあるわけで、またそれが常識に転じることもあるわけで、それはそれで面白いじゃないの…と思うのだけれど…(ここでも自己正当化^^;)。
最近はマツコ・デラックスさんが、バッサバッサと独善的に人を斬るように、小気味いい意見を言ってくれている。そこで共感するというのはどういうことなんだろうということにも目を向けてみるといい。
面白がっているのはどの部分か…って。
それから、マツコさんも場所を選んで発言しているということ。一応、時と場所を選んでいるところがいいところだよな、と思う。
ま、独善を発揮するには、時と場所を選べよ…っていうことが結局は大切なんだろうなと思う。
そうすれば他人を不幸にすることもないだろうし。
面倒くさいけど。
そういえば、マツコ・デラックスさんを世に出したのは、中村うさぎさんと言ってもいいのでした。
共感を覚える人がこういう人たちって、私ってどうなんだろう…て、ここでツッコんでもねえ(笑)
ついでを言えば、仲間を作ったりして何かを始めるというのは苦手だから、どちらにしても独善で行くことは自分は不幸ではないと思っていたりもする。他人を幸せにするために、迎合したって面白くもなんともない。
とここまで考えたとき、自分の老後のテーマが見えてきた(笑)
それは
「寂しい晩年」。
いいなあ、これ。全く「寂しい晩年」で私は十分だよ。自虐でもなんでもなく。
だってこれは他人から見た私の姿や生活であって、私自身は寂しくないと思うから。
これで十分。
おしまい。
「正しさの人は、他人を幸せにできない」という町山智浩さんの言葉を引用しているんだけど、正しさという独善は他人を幸せにしないんだよ…ということらしいのだ。
それを自分にあてはめてみたら、「そうだよな~」と妙に納得した。
よく「物を断定的に言う」とか、ほとんど「これはこうだから」と他の人の意見を取り入れる余裕のない言葉を発してしまって、そこで話を終えてしまうことがある。
バッサバッサと言葉で人を斬るというやつですな。
何か事を始めるにしても、自分で何でもやってしまった方が早いから、これまたバッサバッサと斬るように行動をしてしまって、全然他人を仲間に招き入れない自分がいるわけで、これは他人を幸せにしていないんだろうと思う。
…そういうことになる。
「どんだけ自分を正しいと思っているんだ、あたし!」とツッコミを入れている女王様(中村うさぎさん)が可笑しくって。だけど自覚しているのだから、それはそれでいいんじゃないかなとも思う。
自分もそう言うと正当化しているわけになるんだけど(笑)
「世間の規範とは関係なく『自分ルール』と呼ぶべき独特の『正しさ』の基準があって、その『正しさ』に己が殉じるのは当然としても、その基準を他者にも当てはめて裁いてしまうという傾向が強いのである」と中村うさぎさんは言う。
でもさ、これは誰もが知らず知らずにやっていることだと思うけれどね。
問題は、自分が感じて、自分の頭で考えて、そして出来上がった「自分ルール」なのか。それとも他者が作り上げた、いわゆるマジョリティの人々の総意になっているような意見(それを常識というのだろうけれど)で出来上がった「自分ルール」なのか。
その違いというだけで、「自分ルール」というのは誰にも存在すると思う。
ただ「常識的であること」と、「独善的であること」が、幸か不幸かのどちらかになってしまうんだわ。
だけどね、「常識=正しさ」かと言ったら、??? となる。
常識なんて本当は移ろいやすいものだと思うし。
であれば、独善的であることを自分ルールに用いているということは揺るぎないものにもなる可能性もあるわけで、またそれが常識に転じることもあるわけで、それはそれで面白いじゃないの…と思うのだけれど…(ここでも自己正当化^^;)。
最近はマツコ・デラックスさんが、バッサバッサと独善的に人を斬るように、小気味いい意見を言ってくれている。そこで共感するというのはどういうことなんだろうということにも目を向けてみるといい。
面白がっているのはどの部分か…って。
それから、マツコさんも場所を選んで発言しているということ。一応、時と場所を選んでいるところがいいところだよな、と思う。
ま、独善を発揮するには、時と場所を選べよ…っていうことが結局は大切なんだろうなと思う。
そうすれば他人を不幸にすることもないだろうし。
面倒くさいけど。
そういえば、マツコ・デラックスさんを世に出したのは、中村うさぎさんと言ってもいいのでした。
共感を覚える人がこういう人たちって、私ってどうなんだろう…て、ここでツッコんでもねえ(笑)
ついでを言えば、仲間を作ったりして何かを始めるというのは苦手だから、どちらにしても独善で行くことは自分は不幸ではないと思っていたりもする。他人を幸せにするために、迎合したって面白くもなんともない。
とここまで考えたとき、自分の老後のテーマが見えてきた(笑)
それは
「寂しい晩年」。
いいなあ、これ。全く「寂しい晩年」で私は十分だよ。自虐でもなんでもなく。
だってこれは他人から見た私の姿や生活であって、私自身は寂しくないと思うから。
これで十分。
おしまい。
久々にお邪魔したら、難しいテーマだったわぁ。
グレていた高校時代に「常識を作ったのはだれだ。ワイは、ワイの常識じゃ。」などと、考えていた時期がありましたけどね。
今はすべて自分中心の考え方をする人を見ると、あんたはアスペルガー?などと、勝手に思って諦めています。
そういう自分も人から見たらそう思われているのかもしれませんが。
by mamire (2010-10-25 23:51)
*mamireさま*
ちょっとわかりにくい話でしたよね。「独善」を考えているうち、結論づけ
ようと思っていた方向とは少々違うところへ行ってしまいました^^;
確かにアスペルガーとなると超越しているから、諦めざるを得ないですね。
(本人は苦しんでいるかもしれませんが…)
「大勢の意見なんだから、これは常識なんだよ!」と断定されるのは
ま~一番面倒くさいです^^;
by toro (2010-10-27 09:21)