老いてもいいんだ その2 [本の感想]
30代、40代を経て、50代に突入をした途端に「老い」を意識するようになった気がします。
基本的には、老いようが何しようが気にしない性質なのですが、さすがに疲れ方や太り方、肌のたるみ方の変化を実感しはじめて、「老いてきたんだなあ」と思うようになりました。
そして「老いてもいいんだ」。
2月に遺伝子のお話から、老いてもいいんだという認識を得ましたが、今回は生き方からして老いてもいいんだという共感を覚えました。
それはこの本。
何というか、人の言葉なんてちゃんちゃらおかしくて聞いてらんないわと思わないことはない。でもピーコさんは結構いいことを言うので、TVに出ていたりするとついつい話を聞いてしまうし、本を読んでも「そうそう」と共感することが多いので、信頼できる人なのではないかと思っています。
そのピーコさんによるピーコさんの言葉。
この本のよいところは、対談する相手の人選だと思います。ピーコさんの対談もいくつか読んだことがありますが、相手が悪いのか、編集が悪いのか、どちらかでしょうが、「話がぶれているな」と感じることがありました。
たぶん人選ありきで、次にそれを構成する編集さんの力量がものをいうわけです。
それで、今回のこの本で対談をしているのは、マツコ・デラックスさん、吉行和子さん、奈良岡朋子さんのお三方。これはうまい! と膝を叩きました。いい人選です。
人がよければ、引き出される言葉もよくなるわけで、多少は力量のない編集者でも文章をうまく構成することができると。さらには、わかっていないとできないことでもあるわけで、ちゃんとわかっている人が作ったのだなと感じることができます。ほめてもいい本だと思いました。
このなかで特筆すべきピーコさんの言葉。
『私は本がないと生きていけないわ。本は人生みたいなものだもの。』
その通り!!! 本から得られるものは、とにかく膨大。それを活用しない手はない。これほど想像力を養える道具はないと私は思っています。
おそらくこれから電子書籍が普及して、ネットでちょちょちょいと検索すると、簡単にいろいろな本に出てくる言葉を見つけ出すことができるようになるでしょう。
でも、きっと電子書籍だとその前後を見落とすだろうと予想できるし、周辺にある書籍を見つけることができないだろうなと感じています。そして誤解を受ける。
だいたいAmazonで本を買って、この本はお好みのものでしょうと出てくる「おすすめ商品」を見ても、欲しいものが出てきた例がなく、「ち、コンピューターもまだこの程度か」なんて思ったりもしているくらいで(笑)
手に取ってぱらぱらと見るその感触が、いい本(書籍)との出合いを生んだりするんですけどねええ。
何と言いますかね。老眼で文字を読むのは辛かろうと思いますよ。でもね、老いてもなお本を読むことにこだわる。それは、本当に本を読む楽しさを知っている証拠で、読んで得られるものがどれだけあるかわかっている証拠でもあるわけです。
本は読まないとっ!
そして、「老いてもいいんだ」ですが、ピーコさんはこんなことを言っています。
『「若づくり」って恥ずかしいこと。
若いコと同じ服を着たってちっとも美しくないのよ。肌も体形も違うんだから。
娘と同じ格好をして、「姉妹と間違われるんです」って嬉しそうな人がいるけど、バカじゃないのって思う。
何も積み上げてこなかった人ほど、若く見せたいのかしら?』と言います。
面白いねえ。
老いに抵抗して「若づくり」するなんてバカみたいと言っているんですよ。
『50代になったら、それまでどう生きてきたがということが問われるんです。
鏡を見て、自分の顔を好きだと言えますか。このときシワやシミだけを見ちゃダメよ。20代より優しい顔になっているか。凛としているか。
自分の顔を好きだと思えたら、安心なさいな。
今の自分を生かす、身の丈に合ったファッションを堂々と楽しめばいいんです。わざわざ若い人の服を着て、今の自分の良さを消してしまうなんて、どんなにバカバカしいことかということもわかるはず。』と言葉をつないでいきます。その通りだなあと思います。
美魔女のもてはやされている姿を見て、「羨ましい」と思ったことが一度もありません。
「何が楽しいのだろう」と思うばかりで、そういうメンタルが理解できないでいます。
そんななかで、こういうピーコさんの言葉を読むと、その通りだよなあと思うのです。
結局、どんな格好をしたって、それまでの生き方がにじみ出ると。年を取ったら取ったで、身の丈に合った服を選んで、自分の良さが引き出されればそれでいいじゃない。うんうん。
電車の中などで、それなりに年老いたおばあさんが、年相応の仕立てのいい服を着て、綺麗にしている姿を目にすると、それはもう素敵だなあと思うわけで、できればそんな風に老いていきたいと思うのです。
老いに抵抗するのではなく、老いを受け入れてこそだなと思います。
段々と自分より年上の人のいい言葉というのが聞けなくなってきているので、これは貴重です。
ま、年を取ってもダメな人はダメですけどね。きっとそういう人は無理な若づくりをしているはずです^^;
そういうわけで、さらに「老いてもいいんだ」と思える本の紹介でありました。
基本的には、老いようが何しようが気にしない性質なのですが、さすがに疲れ方や太り方、肌のたるみ方の変化を実感しはじめて、「老いてきたんだなあ」と思うようになりました。
そして「老いてもいいんだ」。
2月に遺伝子のお話から、老いてもいいんだという認識を得ましたが、今回は生き方からして老いてもいいんだという共感を覚えました。
それはこの本。
何というか、人の言葉なんてちゃんちゃらおかしくて聞いてらんないわと思わないことはない。でもピーコさんは結構いいことを言うので、TVに出ていたりするとついつい話を聞いてしまうし、本を読んでも「そうそう」と共感することが多いので、信頼できる人なのではないかと思っています。
そのピーコさんによるピーコさんの言葉。
この本のよいところは、対談する相手の人選だと思います。ピーコさんの対談もいくつか読んだことがありますが、相手が悪いのか、編集が悪いのか、どちらかでしょうが、「話がぶれているな」と感じることがありました。
たぶん人選ありきで、次にそれを構成する編集さんの力量がものをいうわけです。
それで、今回のこの本で対談をしているのは、マツコ・デラックスさん、吉行和子さん、奈良岡朋子さんのお三方。これはうまい! と膝を叩きました。いい人選です。
人がよければ、引き出される言葉もよくなるわけで、多少は力量のない編集者でも文章をうまく構成することができると。さらには、わかっていないとできないことでもあるわけで、ちゃんとわかっている人が作ったのだなと感じることができます。ほめてもいい本だと思いました。
このなかで特筆すべきピーコさんの言葉。
『私は本がないと生きていけないわ。本は人生みたいなものだもの。』
その通り!!! 本から得られるものは、とにかく膨大。それを活用しない手はない。これほど想像力を養える道具はないと私は思っています。
おそらくこれから電子書籍が普及して、ネットでちょちょちょいと検索すると、簡単にいろいろな本に出てくる言葉を見つけ出すことができるようになるでしょう。
でも、きっと電子書籍だとその前後を見落とすだろうと予想できるし、周辺にある書籍を見つけることができないだろうなと感じています。そして誤解を受ける。
だいたいAmazonで本を買って、この本はお好みのものでしょうと出てくる「おすすめ商品」を見ても、欲しいものが出てきた例がなく、「ち、コンピューターもまだこの程度か」なんて思ったりもしているくらいで(笑)
手に取ってぱらぱらと見るその感触が、いい本(書籍)との出合いを生んだりするんですけどねええ。
何と言いますかね。老眼で文字を読むのは辛かろうと思いますよ。でもね、老いてもなお本を読むことにこだわる。それは、本当に本を読む楽しさを知っている証拠で、読んで得られるものがどれだけあるかわかっている証拠でもあるわけです。
本は読まないとっ!
そして、「老いてもいいんだ」ですが、ピーコさんはこんなことを言っています。
『「若づくり」って恥ずかしいこと。
若いコと同じ服を着たってちっとも美しくないのよ。肌も体形も違うんだから。
娘と同じ格好をして、「姉妹と間違われるんです」って嬉しそうな人がいるけど、バカじゃないのって思う。
何も積み上げてこなかった人ほど、若く見せたいのかしら?』と言います。
面白いねえ。
老いに抵抗して「若づくり」するなんてバカみたいと言っているんですよ。
『50代になったら、それまでどう生きてきたがということが問われるんです。
鏡を見て、自分の顔を好きだと言えますか。このときシワやシミだけを見ちゃダメよ。20代より優しい顔になっているか。凛としているか。
自分の顔を好きだと思えたら、安心なさいな。
今の自分を生かす、身の丈に合ったファッションを堂々と楽しめばいいんです。わざわざ若い人の服を着て、今の自分の良さを消してしまうなんて、どんなにバカバカしいことかということもわかるはず。』と言葉をつないでいきます。その通りだなあと思います。
美魔女のもてはやされている姿を見て、「羨ましい」と思ったことが一度もありません。
「何が楽しいのだろう」と思うばかりで、そういうメンタルが理解できないでいます。
そんななかで、こういうピーコさんの言葉を読むと、その通りだよなあと思うのです。
結局、どんな格好をしたって、それまでの生き方がにじみ出ると。年を取ったら取ったで、身の丈に合った服を選んで、自分の良さが引き出されればそれでいいじゃない。うんうん。
電車の中などで、それなりに年老いたおばあさんが、年相応の仕立てのいい服を着て、綺麗にしている姿を目にすると、それはもう素敵だなあと思うわけで、できればそんな風に老いていきたいと思うのです。
老いに抵抗するのではなく、老いを受け入れてこそだなと思います。
段々と自分より年上の人のいい言葉というのが聞けなくなってきているので、これは貴重です。
ま、年を取ってもダメな人はダメですけどね。きっとそういう人は無理な若づくりをしているはずです^^;
そういうわけで、さらに「老いてもいいんだ」と思える本の紹介でありました。
路上スナップはとにかく撮れ! [本の感想]
5月になると、京都は三条会商店街で「地ビール祭京都2013」が開かれるそうで、くぅ~羨ましい。
何が羨ましいって、ここ、昔住んでいたマンションから近い商店街なんですよ。自転車でよく行ったよな~と思い出すわけで。それだけではなく、その昔はこんなイベントなんてなかったから、買い物をするだけの場所だったけれど、しかも買い物客は地元の人ばかりで、観光客はほとんどいなくてのんびりとできたからよかったんだけど。
そんな場所で地ビール祭かあ。楽しそうだなあ。三条会商店街のアーケードはそこそこ長いから、楽しみ甲斐があるってもんでしょう。
桜の京都もいいけどね、こんなイベント目指していくのも楽しそうだなあと思う春であります^^;
さて、ちょっと前に読んだ本のこと。
20代前半に写真を見ていただいていたことのある森山大道さんの本です。
帯に書いてある通り、「中途半端なコンセプトは捨てて、とにかく撮れ!」とおっしゃっているわけですが、いまからおよそ30年前も森山さんは同じことを口が酸っぱくなるほどおっしゃっていました。
「とにかく撮れ!」。
頭で考えて撮るのではなく、撮りながら考えろと。
久しぶりのこの森山節といえるような言葉を聞いて「はっ!」としました。
何にはっとしたかと言うと、「とにかく撮れ!」もそうなんですが「とにかく表へ出て、歩け!」「そして撮れ!」ということ。
写真を撮るより、「歩きたいな、そして撮れたら撮りたいな」という気持ちになったのです。
その昔、森山さんが写真を撮って歩くのに何度か同行したことがあります。もちろん、同行者は何人かいて、そのなかの一人だったのですが、歩きまわって撮りまくる森山さんを見ていて思ったのは、とにかく人物や物のある風景をよく見ているということでした。
観察している感じではあるのですが、早いので感覚的に瞬時に風景を捉えているという感じでした。その様子がなんかね……カッコよかったのですよ(←そこかっ!? って感じですが^^;)。
もう本当にね、その頃、周りには理論をこねくり回すような男性が多くてですね、面倒くさかったんですよ。
その屁理屈のような理論を聞かされてうんざりするというか……。
でもそんな男性ほどへっぽこ素人写真家なわけで、「森山さんを見習え!」とおこがましくも声を荒げて言ってしまいたい衝動にかられたものです。
結局、頭でっかちになるようではいかんと。表に出なさいよと。
歩いていろいろなものを見なさいよと。
見て感じなくてはわからないよな、と思うのです。
そして久しぶりに出合った森山さんの本で、その森山さんの姿勢がずーっと変わらないことを確認して、感動して、私も歩き回りたいと思ったのでした。
帯にある「森山式スナップの心得」。
○大事なのは“撮りたい”という「欲望」
○とにかく表へ出て、歩け!
○理屈は後からでもつけられる。とにかく撮れ!
○何でもよく見て、気になったものを全て写せ!
○商店街のスナップでは、必ず往復。
○デジカメは、撮ったものを逐一見返すな!
はい。この教えを胸に、ちょっと写真でも撮りに行こうかなと思います。
ブルース・リーが言うところの、
don't think、feel ! ですね。
私のインプットの季節もそろそろ終わりにしなければならなそうです。
うむうむ。
おしまい。
何が羨ましいって、ここ、昔住んでいたマンションから近い商店街なんですよ。自転車でよく行ったよな~と思い出すわけで。それだけではなく、その昔はこんなイベントなんてなかったから、買い物をするだけの場所だったけれど、しかも買い物客は地元の人ばかりで、観光客はほとんどいなくてのんびりとできたからよかったんだけど。
そんな場所で地ビール祭かあ。楽しそうだなあ。三条会商店街のアーケードはそこそこ長いから、楽しみ甲斐があるってもんでしょう。
桜の京都もいいけどね、こんなイベント目指していくのも楽しそうだなあと思う春であります^^;
さて、ちょっと前に読んだ本のこと。
20代前半に写真を見ていただいていたことのある森山大道さんの本です。
帯に書いてある通り、「中途半端なコンセプトは捨てて、とにかく撮れ!」とおっしゃっているわけですが、いまからおよそ30年前も森山さんは同じことを口が酸っぱくなるほどおっしゃっていました。
「とにかく撮れ!」。
頭で考えて撮るのではなく、撮りながら考えろと。
久しぶりのこの森山節といえるような言葉を聞いて「はっ!」としました。
何にはっとしたかと言うと、「とにかく撮れ!」もそうなんですが「とにかく表へ出て、歩け!」「そして撮れ!」ということ。
写真を撮るより、「歩きたいな、そして撮れたら撮りたいな」という気持ちになったのです。
その昔、森山さんが写真を撮って歩くのに何度か同行したことがあります。もちろん、同行者は何人かいて、そのなかの一人だったのですが、歩きまわって撮りまくる森山さんを見ていて思ったのは、とにかく人物や物のある風景をよく見ているということでした。
観察している感じではあるのですが、早いので感覚的に瞬時に風景を捉えているという感じでした。その様子がなんかね……カッコよかったのですよ(←そこかっ!? って感じですが^^;)。
もう本当にね、その頃、周りには理論をこねくり回すような男性が多くてですね、面倒くさかったんですよ。
その屁理屈のような理論を聞かされてうんざりするというか……。
でもそんな男性ほどへっぽこ素人写真家なわけで、「森山さんを見習え!」とおこがましくも声を荒げて言ってしまいたい衝動にかられたものです。
結局、頭でっかちになるようではいかんと。表に出なさいよと。
歩いていろいろなものを見なさいよと。
見て感じなくてはわからないよな、と思うのです。
そして久しぶりに出合った森山さんの本で、その森山さんの姿勢がずーっと変わらないことを確認して、感動して、私も歩き回りたいと思ったのでした。
帯にある「森山式スナップの心得」。
○大事なのは“撮りたい”という「欲望」
○とにかく表へ出て、歩け!
○理屈は後からでもつけられる。とにかく撮れ!
○何でもよく見て、気になったものを全て写せ!
○商店街のスナップでは、必ず往復。
○デジカメは、撮ったものを逐一見返すな!
はい。この教えを胸に、ちょっと写真でも撮りに行こうかなと思います。
ブルース・リーが言うところの、
don't think、feel ! ですね。
私のインプットの季節もそろそろ終わりにしなければならなそうです。
うむうむ。
おしまい。
老いてもいいんだ。 [本の感想]
家でじっとしている時間が続いているけれど、インプットの時間であると思えば、ま、いいやと。
そんな思いに合わせて、せっせと読書をしております。なぜか新書が続いているけれど。
「人は死なない」を書いた矢作直樹氏と遺伝子研究に尽力してこられた村上和雄氏との共著。意見交換という形で交互に一つのテーマに沿って書かれています。
矢作氏が書かれた本を一通り読んできたつもりですが、一番おもしろく読めました。
なかでも村上氏の発言がおもしろい。
村上氏の遺伝子解読を基礎として、その遙か後方から支えているもの、「人智を超えた大いなる力」とも言っていますが、「神(サムシング・グレート)」の存在を認める発言が実感のこもったもので、なるほどと納得できるものでした。
以前も書いたことで、私の父が言っていたこと。発電所の設計・施工に関わる仕事をしていた父ですが、計算を得意としていました。その父が言っていたことで、計算では算出できないものがあると。数字では表せない何かがあると感じていたそうです。
それと同様なことを村上氏は言います。
DNAの配列は読めたけれど、解読ができない。「DNAは細胞の設計図ですが、設計図だけでは家は建ちません。建設業者が不明で、DNAそのものを誰がデザインしたのかがわからないのです」と。
「部品設計図としてのDNAという存在は理解できますが、命の設計図、つまり「魂の設計図」は科学ではまったくわかりません」とまで言い切ります。
では、それは何? と考えたときに「スピリチュアル」とか「魂」とか、そういう言葉が必要になると言うのです。
いろいろと研究をしてきた学者が、そんなところにたどり着いてしまうという不思議がありますが、「遺伝子」という領域において、そこにたどり着くのは仕方のないことなのかもしれないと感じました。
一方、矢作氏は医療の現場で「あの世」があるとしか考えられない体験をしています。その不思議な体験を重ねるうちに、肉体は滅びても魂は生き続けるのではないかと考えます。そして「人は死なない」んだ、というところに行き着くのです。
ということで両者とも魂はあるのではないかというスタンスで話は進みます。
読み進んでいくうちに、いいな~と思ったのは、村上氏が「私たちの体はレンタル品」というくだり。
「私が魂の存在に惹かれるのは、身体の想像を絶する入れ替わりの仕組みを知り、考察したからです。細胞は毎日、ものすごい勢いで入れ替わっています。では、それらの細胞はどこから来ているのか?」……「私たちが体に持っている元素は、すべて地球の元素です。では、地球の元素はどこから来ているのかと言えば、もちろん宇宙から来ています」……つまり地球の元素、宇宙から来ているものでできている体なのだから借り物であると言うのです。
では借り主は誰なのか。体が借り主だとすると「体は60兆個の細胞でできており、それらは一年くらいで一度ほとんど全部入れ替わりますから、そういう主体性のない存在に借りる権利はありません」
では心か? というと、細胞と同じで心も「しょちゅう変わります」。「そんな不安定なものに体を貸せるわけがない」といいます。
すると残っているのは「魂」なのではないか、というのです。
ではなぜ生まれて、なぜ死ぬのか、と考えたとき、魂があって「あの世」があると思えば説明がつくことになります。
村上氏は「死という問題を解決しなければ、人間は幸せになれません。魂が永遠の命みたいなものであり、肉体的な命はなくなるけれども魂はずっと続く。そう考えると、死がそれほど恐いものではないと理解でき、少し不自由だけれども肉体を伴って現世に滞在し、時期が来れば元いた場所に帰って行くという仕組みは腑に落ちます」といいます。
そして、「巷で人気のアンチエイジングは無駄なのです」…「加齢という法則には勝てません。アンチエイジングはきわめて不自然です」…「むしろ「見事に死ぬ」「どう老いるか」を論じたほうが、健康的で自然です」とおっしゃいます。
わが意を得たり!(笑)
肉体が細胞分裂のたまものと思えば、その分裂状況が遅くなったり、不具合が起きたりすると、年老いるというのはそういうことなのではないかと思っていました。
「レンタル品」というと極端かもしれませんが、自然に肉体をお返しするということは「死」であるわけで、起きて当然のことです。でも死んでしまうにもかかわらず、何で生まれたのか。魂があって、あの世があると思うと納得できるから不思議です。
若作りしたって、一生懸命サプリメントを飲んだって、いつか死は訪れると。きっと遺伝子という設計図に書かれたとおりに、肉体は生きるのだろうと感じますしね。
つまりは恐れている死が近づくような気がするから、老いたくないのであって、死は恐れるものではないと思えば、老いも恐くはないのではないか。そう思うのです。
あと生きられても20年くらいかな、という年齢になって、老いというものに思いを巡らせていました。「美魔女」という熟年の女性がもてはやされて、いつまでも若く美しくあることがいいことのように言われています。しかしそんな風潮に抵抗感を持っていた私には、この村上氏の発言は勇気をもらえるものでした。
「老いてもいいんだ」と。
この本では、もっと多岐にわたって、「神」や「魂」「あの世」について語られています。
遺伝子の話もとてもおもしろかったです。
興味のある方はぜひ。新書だからすっと読めますよ~。
あと、何で読んだのかは思い出せないのですが、「胸腺」という臓器の移植の話。
胸腺というのは、リンパ球の分化増殖に関与していて、免疫機能の中枢的役割を担うものです。思春期まで増大を続けますが、その後退縮して脂肪組織に置換されるもの。
その若い人だけが持つ胸腺を、年老いた人に移植すれば免疫機能を高められるのではないか、ということで移植が行われた事例があったそうです。
それで効果が現れたかというと、胸腺は結局働かなくなり、やはり若い肉体ではないと生かされないということがわかったというのです。
その話を読んだとき、なんと胸腺は年齢を感じるのか? と思ったりもしましたが、いま思うと、その胸腺を生かす何らかの細胞が若い人にはあるけれど、年老いた人にはそれがないということなんだと、そう理解しました。
つまりは、どんなに抵抗したって、誰にでも死は訪れるし、誰にでも老いは訪れるのだということなんですね。
当然のことなんですけれど。
死や老いを忌み嫌う必要なないと、この本を読んで思った次第であります。
おしまい。
そんな思いに合わせて、せっせと読書をしております。なぜか新書が続いているけれど。
神(サムシング・グレート)と見えない世界(祥伝社新書308)
- 作者: 矢作 直樹
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2013/02/02
- メディア: 新書
「人は死なない」を書いた矢作直樹氏と遺伝子研究に尽力してこられた村上和雄氏との共著。意見交換という形で交互に一つのテーマに沿って書かれています。
矢作氏が書かれた本を一通り読んできたつもりですが、一番おもしろく読めました。
なかでも村上氏の発言がおもしろい。
村上氏の遺伝子解読を基礎として、その遙か後方から支えているもの、「人智を超えた大いなる力」とも言っていますが、「神(サムシング・グレート)」の存在を認める発言が実感のこもったもので、なるほどと納得できるものでした。
以前も書いたことで、私の父が言っていたこと。発電所の設計・施工に関わる仕事をしていた父ですが、計算を得意としていました。その父が言っていたことで、計算では算出できないものがあると。数字では表せない何かがあると感じていたそうです。
それと同様なことを村上氏は言います。
DNAの配列は読めたけれど、解読ができない。「DNAは細胞の設計図ですが、設計図だけでは家は建ちません。建設業者が不明で、DNAそのものを誰がデザインしたのかがわからないのです」と。
「部品設計図としてのDNAという存在は理解できますが、命の設計図、つまり「魂の設計図」は科学ではまったくわかりません」とまで言い切ります。
では、それは何? と考えたときに「スピリチュアル」とか「魂」とか、そういう言葉が必要になると言うのです。
いろいろと研究をしてきた学者が、そんなところにたどり着いてしまうという不思議がありますが、「遺伝子」という領域において、そこにたどり着くのは仕方のないことなのかもしれないと感じました。
一方、矢作氏は医療の現場で「あの世」があるとしか考えられない体験をしています。その不思議な体験を重ねるうちに、肉体は滅びても魂は生き続けるのではないかと考えます。そして「人は死なない」んだ、というところに行き着くのです。
ということで両者とも魂はあるのではないかというスタンスで話は進みます。
読み進んでいくうちに、いいな~と思ったのは、村上氏が「私たちの体はレンタル品」というくだり。
「私が魂の存在に惹かれるのは、身体の想像を絶する入れ替わりの仕組みを知り、考察したからです。細胞は毎日、ものすごい勢いで入れ替わっています。では、それらの細胞はどこから来ているのか?」……「私たちが体に持っている元素は、すべて地球の元素です。では、地球の元素はどこから来ているのかと言えば、もちろん宇宙から来ています」……つまり地球の元素、宇宙から来ているものでできている体なのだから借り物であると言うのです。
では借り主は誰なのか。体が借り主だとすると「体は60兆個の細胞でできており、それらは一年くらいで一度ほとんど全部入れ替わりますから、そういう主体性のない存在に借りる権利はありません」
では心か? というと、細胞と同じで心も「しょちゅう変わります」。「そんな不安定なものに体を貸せるわけがない」といいます。
すると残っているのは「魂」なのではないか、というのです。
ではなぜ生まれて、なぜ死ぬのか、と考えたとき、魂があって「あの世」があると思えば説明がつくことになります。
村上氏は「死という問題を解決しなければ、人間は幸せになれません。魂が永遠の命みたいなものであり、肉体的な命はなくなるけれども魂はずっと続く。そう考えると、死がそれほど恐いものではないと理解でき、少し不自由だけれども肉体を伴って現世に滞在し、時期が来れば元いた場所に帰って行くという仕組みは腑に落ちます」といいます。
そして、「巷で人気のアンチエイジングは無駄なのです」…「加齢という法則には勝てません。アンチエイジングはきわめて不自然です」…「むしろ「見事に死ぬ」「どう老いるか」を論じたほうが、健康的で自然です」とおっしゃいます。
わが意を得たり!(笑)
肉体が細胞分裂のたまものと思えば、その分裂状況が遅くなったり、不具合が起きたりすると、年老いるというのはそういうことなのではないかと思っていました。
「レンタル品」というと極端かもしれませんが、自然に肉体をお返しするということは「死」であるわけで、起きて当然のことです。でも死んでしまうにもかかわらず、何で生まれたのか。魂があって、あの世があると思うと納得できるから不思議です。
若作りしたって、一生懸命サプリメントを飲んだって、いつか死は訪れると。きっと遺伝子という設計図に書かれたとおりに、肉体は生きるのだろうと感じますしね。
つまりは恐れている死が近づくような気がするから、老いたくないのであって、死は恐れるものではないと思えば、老いも恐くはないのではないか。そう思うのです。
あと生きられても20年くらいかな、という年齢になって、老いというものに思いを巡らせていました。「美魔女」という熟年の女性がもてはやされて、いつまでも若く美しくあることがいいことのように言われています。しかしそんな風潮に抵抗感を持っていた私には、この村上氏の発言は勇気をもらえるものでした。
「老いてもいいんだ」と。
この本では、もっと多岐にわたって、「神」や「魂」「あの世」について語られています。
遺伝子の話もとてもおもしろかったです。
興味のある方はぜひ。新書だからすっと読めますよ~。
あと、何で読んだのかは思い出せないのですが、「胸腺」という臓器の移植の話。
胸腺というのは、リンパ球の分化増殖に関与していて、免疫機能の中枢的役割を担うものです。思春期まで増大を続けますが、その後退縮して脂肪組織に置換されるもの。
その若い人だけが持つ胸腺を、年老いた人に移植すれば免疫機能を高められるのではないか、ということで移植が行われた事例があったそうです。
それで効果が現れたかというと、胸腺は結局働かなくなり、やはり若い肉体ではないと生かされないということがわかったというのです。
その話を読んだとき、なんと胸腺は年齢を感じるのか? と思ったりもしましたが、いま思うと、その胸腺を生かす何らかの細胞が若い人にはあるけれど、年老いた人にはそれがないということなんだと、そう理解しました。
つまりは、どんなに抵抗したって、誰にでも死は訪れるし、誰にでも老いは訪れるのだということなんですね。
当然のことなんですけれど。
死や老いを忌み嫌う必要なないと、この本を読んで思った次第であります。
おしまい。
最近読んだ本 [本の感想]
本当に暇でやばい。今月依頼されるはずだった仕事の話が来ないところをみると、どうやら一つ仕事が飛んだのだなと理解。
じわじわと我が身も不況の嵐に巻き込まれつつあるのかと思ったりしております。
政権が自民党の手に渡って、減税・増税案がドサドサと出ているのを眺めていると、「減税」に関して言えば庶民にはほとんど関係のないものばかり。
祖父母から孫への学費として贈与する場合の減税なんて、明らかにお金を持っている人に与えられる減税でしかありません。非常に差別的。あるいは企業への減税。設備投資の減税なんて、ばらまきもいいところだと思うし。
むしろ、子どもたちのための政策を考えてほしいと切に願ってしまいます。
最近の体罰で問題になっている大阪でのやり方なんて本当に汚い。橋下さんのやり方には本当に驚きました。子どもたちをないがしろにするような対応をする酷さは目を覆いたくなります。未来を作っていく彼らのためにどうしたらいいのか。体罰をなくすために体育科を普通科にするなんて、体育科を目指していた子どもたちの目標を奪ってしまうようなもの。受験を直前に控えて、何を考えているんだ! とおばさんは怒ってしまいました。
これでは子どもが悪いと言っているようなもの。体罰を与えられるような子どもがいる体育科が悪い、と言っているようなものなんですよ。体育科には子どもありき。その体育科をなくすというのは、そういうことでしょう。鼻白むというか、浅薄な考えしか持たない橋下さんにひどく呆れました。
それくらい、政治家の低レベル化は進行していると。
話を戻すと、給料が上がらず、物が売れないなかでの増税は、きっと私たちの首を絞め始めるでしょうし、そうなってくるといま以上に政治や行政に期待しなくなって、自分たちの力で何とかしなくちゃという感じになっていくのでしょうね。
鉱工業製品が売れれば企業は助かるのでしょうが、働く人々が助かるかと言ったら、全くわかりません。どうなるんでしょうかね。
まあ、そんなことを暇なもので考えたりしていますが、考えるだけじゃ駄目だなと。これを文章に起こして整理することくらいしておかなくては腕が鈍るなと。ぼちぼちと行きますか。
さて、最近読んだ本。
経済政策ばかりが耳目を集めて、果たして人としてそれでいいのかと思うなか、昨年末からチビチビと読み進めていた「歓喜の仔」。
借金を残して失踪した父親。けがをして植物状態になってしまった母親。そこに残された子どもたち3人が生きのびていく。
生きるために行うこと。生き抜いていくために、目の前にあることをこつこつと行っていく。子どもたちの一人、長男の誠が妄想して作り出す、ある国の占領下に置かれた都市に暮らす少年の物語を織り交ぜながら話しは進む。
二男で小学生の正二、末っ子で幼稚園児の香の考え、行動も生きるために必死だ。さまざまなことを乗り越えた後に、この3人に生きのびていくための奇跡のようなことが起きる。
「悼む人」から、天童荒太さんはどこへ向かっていくのだろうと思っていた。悼む人の静人のような物語を作ってしまったら、そこから先はこの世にはないのではないかと思っていたから。
しかし、より重く、壮絶な世界を作り出した。ちょうどアルジェリアの事件が起きて、フランスのマリ侵攻のことも相まって、その戦渦に巻き込まれているであろう子どもたちのことを想像し、日本では大人たちの勝手で進路を阻まれてるような子どもたちを想像し、それでも生きのびるんだと。人は滅びることはないんだと。
頑張れと、天童荒太さんは言っているんだ。人への讃歌でもある。
次は「たましいの場所」。
帯に書かれた宮藤官九郎さんの言葉に惹かれて買って読んでみた。
「ジャックス」というグループで歌っていた早川義夫さんのエッセイ。
帯に書かれていたのは「誰かに悩みを相談するくらいなら、この本を繰り返し読んだ方がいいとさえ思っています。これは本当にいい本」という文言。
それで読んだ。
何というかなあ。確かに率直で素直に思いのまま文字を連ねていっているのだろうと感じる文章。
その率直さが、胸にぐっとくるんだろうな、たぶん。人によっては。
私には全く響いてこなかった。ぶっちゃけ、芸術家(崩れ)にありがちなナルシストで、一人でいたいのだけど、でもかまってほしいと感じている人なんだな、この人が。
若かりし頃、写真家になろうなんて思っていた頃に知り合った男性によく似ていて、気持ちが悪くなってしまった(笑)
エッセイだから自分のことばかりを書いていいとは思うけれど、人の気持ちを慮るような心の動きがほとんどなくて、「え?」って思った。こうやって自分の気持ちを押しつけるようなオッサンは嫌いだなあ^^; そして本人は押しつけているなんて思ってもいないのだ。
そうか。だからジャックスの歌は心に響いてこなかったんだ。納得。
クドカンが言っていることを前向きにとらえれば、ちっちゃいことにグジグジ悩んでいるオッサンの、このエッセイを読めば悩みを相談するのもばかばかしくなるよ…って感じか。
もう一冊。小林聡美さんの「散歩」。
いや、こんなハードカバーでなくてもよかろうよ、という装丁なんだけど、まあ、いつも通りの小林聡美さんがそこにいる。
文庫化されたら読むといいよ。
物理的に開きにくい本は、持っているのがいやになるから…。そこが残念でした。
おしまい。
そうだ、次こそSNSについて書く。「女子にSNS疲れが顕著」という記事も読んだし、だからさ、今一度考えなくちゃ駄目だよ、という話(にしたいと思っているのだけど)。
じわじわと我が身も不況の嵐に巻き込まれつつあるのかと思ったりしております。
政権が自民党の手に渡って、減税・増税案がドサドサと出ているのを眺めていると、「減税」に関して言えば庶民にはほとんど関係のないものばかり。
祖父母から孫への学費として贈与する場合の減税なんて、明らかにお金を持っている人に与えられる減税でしかありません。非常に差別的。あるいは企業への減税。設備投資の減税なんて、ばらまきもいいところだと思うし。
むしろ、子どもたちのための政策を考えてほしいと切に願ってしまいます。
最近の体罰で問題になっている大阪でのやり方なんて本当に汚い。橋下さんのやり方には本当に驚きました。子どもたちをないがしろにするような対応をする酷さは目を覆いたくなります。未来を作っていく彼らのためにどうしたらいいのか。体罰をなくすために体育科を普通科にするなんて、体育科を目指していた子どもたちの目標を奪ってしまうようなもの。受験を直前に控えて、何を考えているんだ! とおばさんは怒ってしまいました。
これでは子どもが悪いと言っているようなもの。体罰を与えられるような子どもがいる体育科が悪い、と言っているようなものなんですよ。体育科には子どもありき。その体育科をなくすというのは、そういうことでしょう。鼻白むというか、浅薄な考えしか持たない橋下さんにひどく呆れました。
それくらい、政治家の低レベル化は進行していると。
話を戻すと、給料が上がらず、物が売れないなかでの増税は、きっと私たちの首を絞め始めるでしょうし、そうなってくるといま以上に政治や行政に期待しなくなって、自分たちの力で何とかしなくちゃという感じになっていくのでしょうね。
鉱工業製品が売れれば企業は助かるのでしょうが、働く人々が助かるかと言ったら、全くわかりません。どうなるんでしょうかね。
まあ、そんなことを暇なもので考えたりしていますが、考えるだけじゃ駄目だなと。これを文章に起こして整理することくらいしておかなくては腕が鈍るなと。ぼちぼちと行きますか。
さて、最近読んだ本。
経済政策ばかりが耳目を集めて、果たして人としてそれでいいのかと思うなか、昨年末からチビチビと読み進めていた「歓喜の仔」。
借金を残して失踪した父親。けがをして植物状態になってしまった母親。そこに残された子どもたち3人が生きのびていく。
生きるために行うこと。生き抜いていくために、目の前にあることをこつこつと行っていく。子どもたちの一人、長男の誠が妄想して作り出す、ある国の占領下に置かれた都市に暮らす少年の物語を織り交ぜながら話しは進む。
二男で小学生の正二、末っ子で幼稚園児の香の考え、行動も生きるために必死だ。さまざまなことを乗り越えた後に、この3人に生きのびていくための奇跡のようなことが起きる。
「悼む人」から、天童荒太さんはどこへ向かっていくのだろうと思っていた。悼む人の静人のような物語を作ってしまったら、そこから先はこの世にはないのではないかと思っていたから。
しかし、より重く、壮絶な世界を作り出した。ちょうどアルジェリアの事件が起きて、フランスのマリ侵攻のことも相まって、その戦渦に巻き込まれているであろう子どもたちのことを想像し、日本では大人たちの勝手で進路を阻まれてるような子どもたちを想像し、それでも生きのびるんだと。人は滅びることはないんだと。
頑張れと、天童荒太さんは言っているんだ。人への讃歌でもある。
次は「たましいの場所」。
帯に書かれた宮藤官九郎さんの言葉に惹かれて買って読んでみた。
「ジャックス」というグループで歌っていた早川義夫さんのエッセイ。
帯に書かれていたのは「誰かに悩みを相談するくらいなら、この本を繰り返し読んだ方がいいとさえ思っています。これは本当にいい本」という文言。
それで読んだ。
何というかなあ。確かに率直で素直に思いのまま文字を連ねていっているのだろうと感じる文章。
その率直さが、胸にぐっとくるんだろうな、たぶん。人によっては。
私には全く響いてこなかった。ぶっちゃけ、芸術家(崩れ)にありがちなナルシストで、一人でいたいのだけど、でもかまってほしいと感じている人なんだな、この人が。
若かりし頃、写真家になろうなんて思っていた頃に知り合った男性によく似ていて、気持ちが悪くなってしまった(笑)
エッセイだから自分のことばかりを書いていいとは思うけれど、人の気持ちを慮るような心の動きがほとんどなくて、「え?」って思った。こうやって自分の気持ちを押しつけるようなオッサンは嫌いだなあ^^; そして本人は押しつけているなんて思ってもいないのだ。
そうか。だからジャックスの歌は心に響いてこなかったんだ。納得。
クドカンが言っていることを前向きにとらえれば、ちっちゃいことにグジグジ悩んでいるオッサンの、このエッセイを読めば悩みを相談するのもばかばかしくなるよ…って感じか。
もう一冊。小林聡美さんの「散歩」。
いや、こんなハードカバーでなくてもよかろうよ、という装丁なんだけど、まあ、いつも通りの小林聡美さんがそこにいる。
文庫化されたら読むといいよ。
物理的に開きにくい本は、持っているのがいやになるから…。そこが残念でした。
おしまい。
そうだ、次こそSNSについて書く。「女子にSNS疲れが顕著」という記事も読んだし、だからさ、今一度考えなくちゃ駄目だよ、という話(にしたいと思っているのだけど)。
文化活動 [本の感想]
すっかり更新しなくてずいぶん経ってしまったような…。
寒くなって、動きが悪くなっています。
基本、平日の昼間はホットカーペット以外の暖房はつけない、としていまして、背中にカイロを貼り、現在は薄いダウンジャケットを羽織って、ひざ掛けをかけてPCに向かっております。ネックウォーマーはマスト(笑)
修行です^^;
とにかく、電気をあまり使わずにどれだけ耐えて日中を過ごせるのかと実験をしているようなもので、本日、予想最高気温が8℃のところ、まだ頑張っております!
もうね、悔しくってね。原発を推進したい自民党が圧勝なんて、誰が望んだことなんだ~、と怒り浸透していまして、改憲も改悪となる草案を読んでくらくらして…気分は落ち込むばかりなのですよ。
しかしそんなこと言ったところで、どうしようもないので、自分でできることはすると。そんな節電生活^^;
さてさて。
先月11月は誕生日月間でありましたが、一方で文化活動月間でもありました。
いくつかのライヴに足を運び、家ではこんな本を眺めていました。
「くらしのこよみ」(平凡社)は、スマートフォンのアプリになっていて、その人気から書籍化されたもの(反対かな?)。
一度、アプリをダウンロードしたのだけれど、その旬の時期のものしか見られないので、全部を見たいがために本を購入したのでした。
これはかなり楽しい本です。
「ヘンな日本美術史」(祥伝社)は、ちびちびと開いては読んでいるような状態ですが、この筆者が若手(?)美術家としても活躍している人で、この人の描く鳥瞰図はじーっと見ていて楽しい。本の挿絵などもユーモラスなものがあったりして、それも楽しい。
たぶん注目の人なんだと思う。→http://www.jump.co.jp/bs-i/chojin/archive/040.html
と、なかなか文化的な書籍を2冊。
そして、こんな本が出ているのか! と驚いて買ってしまったのは、ジョージア・オキーフのレシピ本。
「え? ジョージア・オキーフのレシピって、どうゆうこと~?」と、思った途端、Amazonをポチしていました。
ジョージア・オキーフは私のイメージとしては「孤高の人」だったので、人との関わりを醸し出すようなレシピ本を作るような人には思えず、まーとにかく驚いたのでした。
レシピのほうは、アメリカですからね…言わずもがなな感じなのですが、彼女と親交のあった人がまとめたもののようで、見ているだけでも微笑ましい。そんな印象を受けました。
別に、孤高の人ではなかったんだな、と。なんだかちょっと安心した次第。
以上、11月の文化活動でした。
天童荒太さんの小説は、もったいないのでゆっくりと読んでいるところです。読み始めたら、一気に読めてしまうんだけどね。
寒くなって、動きが悪くなっています。
基本、平日の昼間はホットカーペット以外の暖房はつけない、としていまして、背中にカイロを貼り、現在は薄いダウンジャケットを羽織って、ひざ掛けをかけてPCに向かっております。ネックウォーマーはマスト(笑)
修行です^^;
とにかく、電気をあまり使わずにどれだけ耐えて日中を過ごせるのかと実験をしているようなもので、本日、予想最高気温が8℃のところ、まだ頑張っております!
もうね、悔しくってね。原発を推進したい自民党が圧勝なんて、誰が望んだことなんだ~、と怒り浸透していまして、改憲も改悪となる草案を読んでくらくらして…気分は落ち込むばかりなのですよ。
しかしそんなこと言ったところで、どうしようもないので、自分でできることはすると。そんな節電生活^^;
さてさて。
先月11月は誕生日月間でありましたが、一方で文化活動月間でもありました。
いくつかのライヴに足を運び、家ではこんな本を眺めていました。
「くらしのこよみ」(平凡社)は、スマートフォンのアプリになっていて、その人気から書籍化されたもの(反対かな?)。
一度、アプリをダウンロードしたのだけれど、その旬の時期のものしか見られないので、全部を見たいがために本を購入したのでした。
これはかなり楽しい本です。
「ヘンな日本美術史」(祥伝社)は、ちびちびと開いては読んでいるような状態ですが、この筆者が若手(?)美術家としても活躍している人で、この人の描く鳥瞰図はじーっと見ていて楽しい。本の挿絵などもユーモラスなものがあったりして、それも楽しい。
たぶん注目の人なんだと思う。→http://www.jump.co.jp/bs-i/chojin/archive/040.html
と、なかなか文化的な書籍を2冊。
そして、こんな本が出ているのか! と驚いて買ってしまったのは、ジョージア・オキーフのレシピ本。
「え? ジョージア・オキーフのレシピって、どうゆうこと~?」と、思った途端、Amazonをポチしていました。
A Painter's Kitchen: Recipes from the Kitchen of Georgia O'keeffe
- 作者: Margaret Wood
- 出版社/メーカー: Museum of New Mexico Pr
- 発売日: 2009/06/15
- メディア: ペーパーバック
ジョージア・オキーフは私のイメージとしては「孤高の人」だったので、人との関わりを醸し出すようなレシピ本を作るような人には思えず、まーとにかく驚いたのでした。
レシピのほうは、アメリカですからね…言わずもがなな感じなのですが、彼女と親交のあった人がまとめたもののようで、見ているだけでも微笑ましい。そんな印象を受けました。
別に、孤高の人ではなかったんだな、と。なんだかちょっと安心した次第。
以上、11月の文化活動でした。
天童荒太さんの小説は、もったいないのでゆっくりと読んでいるところです。読み始めたら、一気に読めてしまうんだけどね。
最近読んだ本と音楽と… [本の感想]
もそもそと相変わらず本を読んでいますが、まさに覚書という感じで忘れてしまうので残しておかなくちゃと…。
まずは吉田豪氏がインタビューしてまとめた本。
サブカルに貢献した人々は、40歳くらいで鬱になっているというのはなんで? という疑問を持ちながらのインタビューをまとめている。
たぶん、このくらいの男性には「中年クライシス」ではないけど、そんなものが訪れるのではないのか? と思う。
たまたま、吉田豪氏の身の回りにちょうどそういう人(サブカルな人)が多かったから、こんな本になったのではないかと。
ジャンルを分けると記号的にわかりやすいからね。まあ、私もサブカル的だったから興味深くは読みました。
でもそのくらい。40代くらいの男性が読んで共感するといいよ~、たぶん。
はい、次。えーと鬱からアスペルガーだわ…。
これはこれで、身近に疑いのある人がいるから参考までに読んだ本。
こういう障害を持っている人とどう付き合えばいいのかと思って、いくつか読んだけれど、みんな同じような帰結になるので、もう読んでも仕方がないかなと思い始めている。
妙案というか、妙策というか、奇策というか、そんなものが出て来やしないかと期待を持って読むのだけれど、特になかった。
はたしてアスペルガー症候群とはなんぞや…と思った人が読むといいと思います。
私としてはそ~っと腫れものに触るように付き合わなくてはいけないというのが面倒臭くって(笑)
その人が癇癪を起したとき、原因となった人間が悪いと思われるのを何とかしたいと、それだけを思うんですけどね。
要するに周りの理解が必要となるわけだけど、そんな理解も得られやしないし。
というわけで被害が及ばないように、付き合いがますます遠ざかるというわけだ。ただ、遠ざかれば遠ざかるほど、その周りに私が誤解されているようで、それがちょっとつらいよね…っていうことでございます。
次は日本女子サッカーの話。
丹念に取材をしている。自らもサッカーをしていたという経験を踏まえているので、実感がこもっているし、よく見えていると感じる。好感が持てる本だった。
女子サッカーというのは男子に比べれば、やっぱり遅いし、小さいし…普通にサッカーを見ていた人が見れば、「面白くない」と思う人はいると思う。それはそれでいいんだけど…。
でもこの本を読んで、代表に選ばれるほどの選手というのは、女子サッカー界のなかでもとんでもなく秀でている人たちで、その女子のなかでの違いというのを、この本を読んで初めて知った。
女子サッカーというのは、割とどんぐりの背比べのようなものかと思っていたのだ。ところがどっこい、いまの代表選手たちの優秀さというのはなかなかなものらしい。
川崎フロンターレの中村憲剛選手が若かりし頃、澤選手にしごかれていたという話は知っている人もいると思うが、体格が変わらない頃に男子選手と互角、またはそれ以上に戦える人たちだったということを知ると、いや、これはすごいんでないかい? と思う。
私は男子選手顔負けに大野選手が小さな体でドリブル突破をはかる姿が好きなんですけどね…(笑)
そして、そんな彼女らを支えてきた人々の話も読むことができる。
えー次は、言わずと知れたクレイジーケンバンドに関する本。
放送作家、ライターである大野ケイスケ氏が、クレイジーケンバンドのメンバー全員をインタビューし、クレイジーケンバンドの奇跡(?)に迫っている。
大野ケイスケ氏がCKBの大ファンで、どんどんとのめりこむうちに、「なぜこんなバンドができたのか…」ということを知りたいと思って、その情熱が後押ししてインタビューを進めた、って感じかな。
すでに知っていることも出てくるけど、CKBのメンバーの相関関係が浮かび上がってくるのが面白かった。
確かに奇跡と言っていいほどの「縁」でつながっている。一種の運命なんだろうなあ~。
出会うべくして出会ったわけだ。
そういうものを読み取ることができて、ファンには面白く読める本。
これは、医者がなかなか踏み込めないでいる事象に踏み込んじゃった人の話。
「人は死なない」で、ちょっと有名になってしまったお医者様(東大教授)でもある矢作直樹氏と、気功師の中健次郎氏との対談をまとめた本。
下手をするとオカルト本的な扱いを受けてしまいそうな内容なのだが、矢作氏の東大教授という肩書が、そのブレーキをかけてくれているような気がする。
でも内容的にはオカルトチックなわけで、科学では絶対に証明できないよな、っていうことが語られているので、これから矢作氏はどこへ向かうのだろう…と、そっちのほうが気になった。
相変わらず、「あの世」というものはあるのか…信じるか信じないかの世界。私は「あの世」はあるだろうと思っているので、それなりに面白く読んだけれど、信じない人にとってもみればトンデモ本になると思う。
非常に紙一重。
こういうのは難しいなあ。東大教授という肩書が権威を持たせて、信用に足るものにするかと言ったらそうではないだろうと感じるし。
でも、こういう人が、踏み込んでこういう話をしたということには意義があると思うからよかったのかなと思う。
(ちなみにアマゾンといつもリンクさせますが、アフィリエイトではありませんです)
さて、音楽の話。
普段、うちではラジオを流しっぱなしにしているのだけど、1年半くらい前まではjwaveを聴いていたのでした。
ところが、好んで聴いていた夕方の番組、「グルーヴラインZ」のピスちゃんの傍若無人さに嫌気がさしてしまい、お隣のinterfmに変えて聴きはじめていました。
結局、「THE DAVE FROMM SHOW」のデイヴのいいお声と、UFOの話や陰謀話が面白くて、そしてかける音楽が好みのものばかりということで、interfmばかりを聴くようになったのです。週3回登場するジョー横溝はちょっとうるさいけどね。
しかし、この夏の7月20日頃、突如DAVEがお休みに…。
「どうしたんだ?」「何かあったのか?」とこの番組のファンの人々は騒いでおりました。
陰謀話なんかするから降ろされたんじゃないかとか、批判的な発言や脱原発を声高に言うから降ろされたんじゃないかとか、勝手にリスナーは想像していたのです。
そうしているうちに、どうやらビザを更新するのを忘れて、滞在許可が取れていないということがわかるのですが。。。
10月1日。
やっと復帰したDAVE。
なんと不法滞在ということで警察署に拘留され、その後入国管理局で拘束されていたというのです。休んでいる理由がアナウンスされた文章に「謹慎」という言葉が出ていたので、「何をやらかしたんだ?」と思っていたら、拘留されていたとは……。
なんというオチ。
ともあれ、好きだった番組が戻ってきてよかったよかったでありますよ。しかしDAVEを復帰させたinterfmは懐が深いというか、いいラジオ局だわ(笑)
で、そんなTHE DAVE FROMM SHOWを聴いていて知ったバンド、 INSPECTOR CLUZO(インスペクター クルーゾ)。
これは! と思いましたよ、奥さん^^;
ギターとドラムと、そして彼らの友人のホーンセクション。フランスのバンドであります。
まずはギターとドラムだけでここまでやるかという驚きと、ホーンセクションが加わるとそれだけでファンク色が強くなり、何と評していいのかなあ。ロックなんだけど、ファンクというかR&Bというか、いや~惹きこまれました。
youtubeで探してみたら、PVも皮肉たっぷりで秀逸です。
昨日は渋谷でライヴがあったらしく、行った人は楽しかったんじゃないかな。
オールスタンディングはオバサンには無理ですが…。
CDを買うかどうするかなんだけど、夫T君の好みではなさそうだよなあ~。まーいいか。
ということで覚書のようなものでした。
おしまい。
まずは吉田豪氏がインタビューしてまとめた本。
サブカルに貢献した人々は、40歳くらいで鬱になっているというのはなんで? という疑問を持ちながらのインタビューをまとめている。
たぶん、このくらいの男性には「中年クライシス」ではないけど、そんなものが訪れるのではないのか? と思う。
たまたま、吉田豪氏の身の回りにちょうどそういう人(サブカルな人)が多かったから、こんな本になったのではないかと。
ジャンルを分けると記号的にわかりやすいからね。まあ、私もサブカル的だったから興味深くは読みました。
でもそのくらい。40代くらいの男性が読んで共感するといいよ~、たぶん。
はい、次。えーと鬱からアスペルガーだわ…。
これはこれで、身近に疑いのある人がいるから参考までに読んだ本。
こういう障害を持っている人とどう付き合えばいいのかと思って、いくつか読んだけれど、みんな同じような帰結になるので、もう読んでも仕方がないかなと思い始めている。
妙案というか、妙策というか、奇策というか、そんなものが出て来やしないかと期待を持って読むのだけれど、特になかった。
はたしてアスペルガー症候群とはなんぞや…と思った人が読むといいと思います。
私としてはそ~っと腫れものに触るように付き合わなくてはいけないというのが面倒臭くって(笑)
その人が癇癪を起したとき、原因となった人間が悪いと思われるのを何とかしたいと、それだけを思うんですけどね。
要するに周りの理解が必要となるわけだけど、そんな理解も得られやしないし。
というわけで被害が及ばないように、付き合いがますます遠ざかるというわけだ。ただ、遠ざかれば遠ざかるほど、その周りに私が誤解されているようで、それがちょっとつらいよね…っていうことでございます。
次は日本女子サッカーの話。
丹念に取材をしている。自らもサッカーをしていたという経験を踏まえているので、実感がこもっているし、よく見えていると感じる。好感が持てる本だった。
女子サッカーというのは男子に比べれば、やっぱり遅いし、小さいし…普通にサッカーを見ていた人が見れば、「面白くない」と思う人はいると思う。それはそれでいいんだけど…。
でもこの本を読んで、代表に選ばれるほどの選手というのは、女子サッカー界のなかでもとんでもなく秀でている人たちで、その女子のなかでの違いというのを、この本を読んで初めて知った。
女子サッカーというのは、割とどんぐりの背比べのようなものかと思っていたのだ。ところがどっこい、いまの代表選手たちの優秀さというのはなかなかなものらしい。
川崎フロンターレの中村憲剛選手が若かりし頃、澤選手にしごかれていたという話は知っている人もいると思うが、体格が変わらない頃に男子選手と互角、またはそれ以上に戦える人たちだったということを知ると、いや、これはすごいんでないかい? と思う。
私は男子選手顔負けに大野選手が小さな体でドリブル突破をはかる姿が好きなんですけどね…(笑)
そして、そんな彼女らを支えてきた人々の話も読むことができる。
えー次は、言わずと知れたクレイジーケンバンドに関する本。
放送作家、ライターである大野ケイスケ氏が、クレイジーケンバンドのメンバー全員をインタビューし、クレイジーケンバンドの奇跡(?)に迫っている。
大野ケイスケ氏がCKBの大ファンで、どんどんとのめりこむうちに、「なぜこんなバンドができたのか…」ということを知りたいと思って、その情熱が後押ししてインタビューを進めた、って感じかな。
すでに知っていることも出てくるけど、CKBのメンバーの相関関係が浮かび上がってくるのが面白かった。
確かに奇跡と言っていいほどの「縁」でつながっている。一種の運命なんだろうなあ~。
出会うべくして出会ったわけだ。
そういうものを読み取ることができて、ファンには面白く読める本。
これは、医者がなかなか踏み込めないでいる事象に踏み込んじゃった人の話。
「人は死なない」で、ちょっと有名になってしまったお医者様(東大教授)でもある矢作直樹氏と、気功師の中健次郎氏との対談をまとめた本。
下手をするとオカルト本的な扱いを受けてしまいそうな内容なのだが、矢作氏の東大教授という肩書が、そのブレーキをかけてくれているような気がする。
でも内容的にはオカルトチックなわけで、科学では絶対に証明できないよな、っていうことが語られているので、これから矢作氏はどこへ向かうのだろう…と、そっちのほうが気になった。
相変わらず、「あの世」というものはあるのか…信じるか信じないかの世界。私は「あの世」はあるだろうと思っているので、それなりに面白く読んだけれど、信じない人にとってもみればトンデモ本になると思う。
非常に紙一重。
こういうのは難しいなあ。東大教授という肩書が権威を持たせて、信用に足るものにするかと言ったらそうではないだろうと感じるし。
でも、こういう人が、踏み込んでこういう話をしたということには意義があると思うからよかったのかなと思う。
(ちなみにアマゾンといつもリンクさせますが、アフィリエイトではありませんです)
さて、音楽の話。
普段、うちではラジオを流しっぱなしにしているのだけど、1年半くらい前まではjwaveを聴いていたのでした。
ところが、好んで聴いていた夕方の番組、「グルーヴラインZ」のピスちゃんの傍若無人さに嫌気がさしてしまい、お隣のinterfmに変えて聴きはじめていました。
結局、「THE DAVE FROMM SHOW」のデイヴのいいお声と、UFOの話や陰謀話が面白くて、そしてかける音楽が好みのものばかりということで、interfmばかりを聴くようになったのです。週3回登場するジョー横溝はちょっとうるさいけどね。
しかし、この夏の7月20日頃、突如DAVEがお休みに…。
「どうしたんだ?」「何かあったのか?」とこの番組のファンの人々は騒いでおりました。
陰謀話なんかするから降ろされたんじゃないかとか、批判的な発言や脱原発を声高に言うから降ろされたんじゃないかとか、勝手にリスナーは想像していたのです。
そうしているうちに、どうやらビザを更新するのを忘れて、滞在許可が取れていないということがわかるのですが。。。
10月1日。
やっと復帰したDAVE。
なんと不法滞在ということで警察署に拘留され、その後入国管理局で拘束されていたというのです。休んでいる理由がアナウンスされた文章に「謹慎」という言葉が出ていたので、「何をやらかしたんだ?」と思っていたら、拘留されていたとは……。
なんというオチ。
ともあれ、好きだった番組が戻ってきてよかったよかったでありますよ。しかしDAVEを復帰させたinterfmは懐が深いというか、いいラジオ局だわ(笑)
で、そんなTHE DAVE FROMM SHOWを聴いていて知ったバンド、 INSPECTOR CLUZO(インスペクター クルーゾ)。
これは! と思いましたよ、奥さん^^;
ギターとドラムと、そして彼らの友人のホーンセクション。フランスのバンドであります。
まずはギターとドラムだけでここまでやるかという驚きと、ホーンセクションが加わるとそれだけでファンク色が強くなり、何と評していいのかなあ。ロックなんだけど、ファンクというかR&Bというか、いや~惹きこまれました。
youtubeで探してみたら、PVも皮肉たっぷりで秀逸です。
昨日は渋谷でライヴがあったらしく、行った人は楽しかったんじゃないかな。
オールスタンディングはオバサンには無理ですが…。
CDを買うかどうするかなんだけど、夫T君の好みではなさそうだよなあ~。まーいいか。
ということで覚書のようなものでした。
おしまい。
最近読んだ本 [本の感想]
乱雑に読み続ける本たち。あ、なんか違う(笑) 本たちを乱雑に読み続ける。ま、いいか。
相変わらず、雑に本を読んでいます。
今回は「ですます」でいきましょうか(いつも、本の感想は「である」である)。
まずは「評伝 ナンシー関」。
知る人ぞ知る、舌鋒鋭く、いいところを突いてくるエッセイスト(でいいんだよね?消しゴム版画家?)でありましたナンシー関さん。亡くなって10年を迎え、出版された本です。
同い年ということもありましたが、ナンシー(勝手に敬称略して呼ばせてもらう)がこの世を去ったという報に触れたとき、なんてことだ! と大きなショックを受けたことを思い出します。
ナンシーの書く文章にいつも共感していたということもあります。見ているところが似ていると思っていました。でも彼女のその見て感じたことを文章にしたときの、その的を鋭く射ているところが、とにかく膝をポンといつも打ってしまうような絶妙さで、他にはいない唯一無二の人だと感じておりました。
そんな風にナンシーのことを思っていた、ナンシーの周辺にいた人の声を拾い集めて、評論した本だと思います。
帯に記されている言葉を読むだけでも、「うんうん」とうなづけることばかりで、あのころのことを知っている人ならば、懐かしいと思うだけでなく、やっぱり惜しい人を亡くしてしまったんだと感じるでしょう。
宮部みゆきさんは「『それでいいのか。後悔はしないのか』というナンシーさんの言葉を、いつも自分自身に言い聞かせているんです。」と言っているし、みうらじゅんさんは「オレ自身、ナンシーさんの悟りの境地のような文章にグッときてましたから。物事をちゃんと客観的に見られるから、ナンシーさんの文書は“言い得て妙”となっていたんでしょうね。心眼で物事を見る人だったから。」と言っています。
共通していることといえば、「客観的であること」なんですよ。客観的にどれだけ物事を見るか。「それでいいのか。後悔はしないのか」と言ってみると、物事を多面的に見なくちゃいかんなという気がするわけで、ナンシーの言動というのは客観的であることに端を発しているということができます。
でも、それを単純なまでに文章にするのではなく、文章を書いてから、その文章に改めて自分で突っ込んでみせたりするのがナンシーの技としてあったように思います。
そうそう、突っ込みたくなるよね、と感じるから不思議なもので…。それは照れであったりするのでしょうが、突っ込んで見せて、「ここがポイント」と言っているような気もするし。そういえば、こういったセルフ突っ込みのような文章を書く人を結構見るようになったのは、ナンシーが書き出したあたりか? と思ってみたり。
そして、消しゴム版画とそこに書かれたキャプションが色を添えて、書かれたエッセイ(評論)をニヤッとしてしまう作品にしてしまうのです。
うまかったなあ。
ぽつりとtwitterでもつぶやいたのですが、ナンシーの最新の文章を読んでみたいなあと思う今日この頃であります。誰か、ナンシーに憑依されてくれないかな(笑)
続いて、「自由すぎるオリンピック観戦術」。
これを書いている「フモフモ編集長」という人のブログを面白おかしくいつも読んでいたので、買って読んでみました。
ロンドンオリンピックが始まる前に読んで、終わった後にも改めて読んでみました。
内容は、ロンドンオリンピックの見どころについてなのですが、この人の「フモフモコラム」を読んでもらえばわかるように、コラムのほうでは実況的な解説と思われますが、かなりいろんな妄想が入り交じり、こっちまで思いもよらない妄想にとらわれてしまうという不思議な観察眼が特徴。
フモフモコラムはこちら→http://blog.livedoor.jp/vitaminw/
「自由すぎる」とうたっているくらいですから、自由な観察眼を持っているわけです。
その面白さを書いてみたいと思いますが、これは読んでもらったほうがいいかな。とりあえずフモフモコラムを読んでみて、その妄想についていけるかいけないか(笑)
これを不快に感じて批判的なコメントを残す人もいますが、いつも読んでいる人はこの妄想に魅了されていて、「今回は、こう来たか」と読んで喜ぶ人が大半。私もそのうちの一人ですが、前述のナンシーと同様に感じる部分があって、「ああ、こういう見方があったか」とこの人の文章でも思えることがあるのです。
人と違う視点に出合える楽しさというか…。
行き過ぎた妄想に付き合っちゃおれん、という人は読まないでいいと思います。でも、なんというか、結局スポーツを観る視線に愛があるよな…と思う文章なので、微笑ましいと受け止めていいんじゃないかと思います。
さて、「自由すぎる~」のなかには「試合会場への乱入者にニラミを利かせ!!」という見出しの文章がありますが、いま思い出してみるといましたね、開会式の選手入場で、インドの選手と一緒に行進していた一般の女性が。
事前の予告ではありませんが、やっぱりいるんだなと。
でも乱入は選手にとって迷惑なこと。日本選手団が開会式の行進の末に外へ出されちゃった、なんていうのも一種の乱入? 乱出? じゃあないか、なんて妄想もしてしまいました(笑)
で、さらに妄想つながりで、私自身は最近の選手たちのお母さんとほぼ同じ年代に差し掛かっています。
なので、結構、自分があの選手の母親だったら…なんていう妄想が繰り広げられたのは言うまでもなく。
いまなおサッカーを観るたびに、「あの子がうちの子だったら」なんて考えたりすることもあります。
ふふふ、男の子がいたら、絶対にサッカーをやらせたのになあ。
てなわけで、あと4、5冊読了している本はありますが、長くなるのでこの次に。
おしまい。
相変わらず、雑に本を読んでいます。
今回は「ですます」でいきましょうか(いつも、本の感想は「である」である)。
まずは「評伝 ナンシー関」。
知る人ぞ知る、舌鋒鋭く、いいところを突いてくるエッセイスト(でいいんだよね?消しゴム版画家?)でありましたナンシー関さん。亡くなって10年を迎え、出版された本です。
同い年ということもありましたが、ナンシー(勝手に敬称略して呼ばせてもらう)がこの世を去ったという報に触れたとき、なんてことだ! と大きなショックを受けたことを思い出します。
ナンシーの書く文章にいつも共感していたということもあります。見ているところが似ていると思っていました。でも彼女のその見て感じたことを文章にしたときの、その的を鋭く射ているところが、とにかく膝をポンといつも打ってしまうような絶妙さで、他にはいない唯一無二の人だと感じておりました。
そんな風にナンシーのことを思っていた、ナンシーの周辺にいた人の声を拾い集めて、評論した本だと思います。
帯に記されている言葉を読むだけでも、「うんうん」とうなづけることばかりで、あのころのことを知っている人ならば、懐かしいと思うだけでなく、やっぱり惜しい人を亡くしてしまったんだと感じるでしょう。
宮部みゆきさんは「『それでいいのか。後悔はしないのか』というナンシーさんの言葉を、いつも自分自身に言い聞かせているんです。」と言っているし、みうらじゅんさんは「オレ自身、ナンシーさんの悟りの境地のような文章にグッときてましたから。物事をちゃんと客観的に見られるから、ナンシーさんの文書は“言い得て妙”となっていたんでしょうね。心眼で物事を見る人だったから。」と言っています。
共通していることといえば、「客観的であること」なんですよ。客観的にどれだけ物事を見るか。「それでいいのか。後悔はしないのか」と言ってみると、物事を多面的に見なくちゃいかんなという気がするわけで、ナンシーの言動というのは客観的であることに端を発しているということができます。
でも、それを単純なまでに文章にするのではなく、文章を書いてから、その文章に改めて自分で突っ込んでみせたりするのがナンシーの技としてあったように思います。
そうそう、突っ込みたくなるよね、と感じるから不思議なもので…。それは照れであったりするのでしょうが、突っ込んで見せて、「ここがポイント」と言っているような気もするし。そういえば、こういったセルフ突っ込みのような文章を書く人を結構見るようになったのは、ナンシーが書き出したあたりか? と思ってみたり。
そして、消しゴム版画とそこに書かれたキャプションが色を添えて、書かれたエッセイ(評論)をニヤッとしてしまう作品にしてしまうのです。
うまかったなあ。
ぽつりとtwitterでもつぶやいたのですが、ナンシーの最新の文章を読んでみたいなあと思う今日この頃であります。誰か、ナンシーに憑依されてくれないかな(笑)
続いて、「自由すぎるオリンピック観戦術」。
これを書いている「フモフモ編集長」という人のブログを面白おかしくいつも読んでいたので、買って読んでみました。
ロンドンオリンピックが始まる前に読んで、終わった後にも改めて読んでみました。
内容は、ロンドンオリンピックの見どころについてなのですが、この人の「フモフモコラム」を読んでもらえばわかるように、コラムのほうでは実況的な解説と思われますが、かなりいろんな妄想が入り交じり、こっちまで思いもよらない妄想にとらわれてしまうという不思議な観察眼が特徴。
フモフモコラムはこちら→http://blog.livedoor.jp/vitaminw/
「自由すぎる」とうたっているくらいですから、自由な観察眼を持っているわけです。
その面白さを書いてみたいと思いますが、これは読んでもらったほうがいいかな。とりあえずフモフモコラムを読んでみて、その妄想についていけるかいけないか(笑)
これを不快に感じて批判的なコメントを残す人もいますが、いつも読んでいる人はこの妄想に魅了されていて、「今回は、こう来たか」と読んで喜ぶ人が大半。私もそのうちの一人ですが、前述のナンシーと同様に感じる部分があって、「ああ、こういう見方があったか」とこの人の文章でも思えることがあるのです。
人と違う視点に出合える楽しさというか…。
行き過ぎた妄想に付き合っちゃおれん、という人は読まないでいいと思います。でも、なんというか、結局スポーツを観る視線に愛があるよな…と思う文章なので、微笑ましいと受け止めていいんじゃないかと思います。
さて、「自由すぎる~」のなかには「試合会場への乱入者にニラミを利かせ!!」という見出しの文章がありますが、いま思い出してみるといましたね、開会式の選手入場で、インドの選手と一緒に行進していた一般の女性が。
事前の予告ではありませんが、やっぱりいるんだなと。
でも乱入は選手にとって迷惑なこと。日本選手団が開会式の行進の末に外へ出されちゃった、なんていうのも一種の乱入? 乱出? じゃあないか、なんて妄想もしてしまいました(笑)
で、さらに妄想つながりで、私自身は最近の選手たちのお母さんとほぼ同じ年代に差し掛かっています。
なので、結構、自分があの選手の母親だったら…なんていう妄想が繰り広げられたのは言うまでもなく。
いまなおサッカーを観るたびに、「あの子がうちの子だったら」なんて考えたりすることもあります。
ふふふ、男の子がいたら、絶対にサッカーをやらせたのになあ。
てなわけで、あと4、5冊読了している本はありますが、長くなるのでこの次に。
おしまい。
最近読んだ本…白洲家モロモロ [本の感想]
猫のTBちゃんが立て続けに膀胱炎を2回繰り返し、詳しく調べてもらったら腎臓が弱いということがわかりました。
もうTBちゃんが可哀相でガックリ…。健康で結構と思っていたのだけれど、先天的に腎臓がよくないらしいです。長生きしてもらいたいと思っているので、できることはしてあげようと。でもまだ2歳半なのになあ。療養食は可哀相でねえ。
水をたくさん飲まなくてはいけないのだけど、ご本人はいつもどおりの水分補給で終わってしまうので、これまた可哀相なのですが、シリンジでときどき飲ませています。点滴にも連れて行かねばなりません。
病気を発症しているというわけではなく、悪化させないための早くからの対応ではあるのですが。
療養食が功を奏してくれたらいいねえ。
さて、本をせっせと読むようになってきたのはいいのだけど、相変わらず偏りはあるわけで(笑)
タイトルもまんま「オカルト」。
超能力者といわれる人々を取材し書いた「職業欄はエスパー」、オウム真理教の信者を主人公とし作ったドキュメンタリー映画「A」など、ちょっと際物を採り上げる森達也氏が書いた本。
考えてみると、私はこの人の本を結構読んでいる。少しネガティヴな感じ、妙にノスタルジックな感じが嫌になり、途中で投げ出した本もあったけれど、比較的面白く読ませてもらっている。
この本は「職業欄はエスパー」の続編だったようで、「本の旅人」で連載していた「職業欄はエスパー2」を再編集し、加筆修正、書下ろしを加えたものだという。
なるほど、当初、色として「職業欄はエスパー」と同じように感じたのはその通りだったというわけか…と納得。
内容はスプーン曲げで有名な清田くんから始まって、イタコ、心霊研究科、超心理学者、スピリチュアルワーカーなどなど、いろいろな登場人物の話からなる。
最終的には「わからない」ということになるのだけれど、でも知りたいという気持ちが勝り、見つめ続けたいと著者は言っている。
オカルト好きな私としては、森達也氏のような存在はいて欲しいと思うし、こういう人がいる限りオカルティックなことが表に出されるわけで、葬り去られることはないだろうとほっとする。
面白かったのは、決まった時間に勝手に引き戸式の自動扉が開くというお寿司屋さんの話。
毎日のように来ていたお客さんが亡くなってから、その現象が始まったというのだ。それはよしとして、その現象をお寿司屋さんの職人さんたちは怖いとも思っておらず、「いつものことで」という感じなのだ。ちょっと微笑ましい感じ…^^;
それからデジタルカメラは心霊スポットなどでシャッターが下りなくなることがあると書かれた箇所があって、「あ、それは今年の1月に体験した!」と思い出して、やっぱりそういういことがあるのか…と納得したり(笑)
面白かったです。著者の姿勢も好感が持てるからなおよし、ということで。
そして、武相荘に行ったことの延長線で読んだこの本。
白洲次郎氏・正子さんの娘である牧山桂子さんが書いた本。両親と過ごした日々のことを綴っている。
始めはあまり文章を書いたことがない人が書いたと思うようなぎこちない印象があったが、進めば進むほど上手になっていって読んでいて楽しかった。
こういう人たちを両親に持つというのはどんな感じだったのだろうと思ったけれど、白洲次郎氏は遺言書どおりに潔い男性である一方で子煩悩なお父さんという一面も垣間見られて、ちょっと意外な気がしつつも人間的に本当に魅力のある人だったんだと感じられる。
一方、正子さんはドラマで見た印象と変わらずワガママな感じなのだが、それが可愛らしい雰囲気なのだ。娘からすれば面倒くさいお母さんだっただろうが、その趣味やものを見る目などを注目すれば、変わっているけれど一流のお母さんであることが理解できると思う。
しかしステータスもさることながら、裕福な人の余裕のある生活がなんとも羨ましいと感じた。
こういう余裕ある生活する人々の話を読むたびに、「ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」という言葉を思い出すのだけど、そういうことをおそらく地でやっていた人たちだろうなと思う。
しかも屈託がなかったのではないか。
生まれも育ちもよく…ということがあるかもしれないが、持って生まれた人間性というものがにじみ出ている。
こんな両親の下に生まれたということも幸せなんだな。
私にとって父親というのは早々に亡くしているので、父親像というものを想像しにくいのだけれど、白洲次郎氏のようなお父さんがいたならば…と妄想してしまう(笑)
父が健在だった頃は、高度成長期も真っ盛りで、少しは余裕があった生活をしていたのではないかと思う。社宅住まいだったけれど、家を買おうかという感じであったし、夏休みや冬休みになれば旅行もしたし、軽井沢なんてえのも行った。
思えば父にも憧れみたいなものがあったのではないかと思う。
ま、うちは育ちが育ちなだけに…いろんなことがありましたが…(笑)
ともあれ、白洲家のお話…いい話を聞いたという気になりました。
えーと牧山桂子さんのご主人が書いた白洲次郎・正子夫婦の本も最近出たようで、買って読んでみようかと思っております。
それで白洲家の話はおわりかな。
おそまつでした。
もうTBちゃんが可哀相でガックリ…。健康で結構と思っていたのだけれど、先天的に腎臓がよくないらしいです。長生きしてもらいたいと思っているので、できることはしてあげようと。でもまだ2歳半なのになあ。療養食は可哀相でねえ。
水をたくさん飲まなくてはいけないのだけど、ご本人はいつもどおりの水分補給で終わってしまうので、これまた可哀相なのですが、シリンジでときどき飲ませています。点滴にも連れて行かねばなりません。
病気を発症しているというわけではなく、悪化させないための早くからの対応ではあるのですが。
療養食が功を奏してくれたらいいねえ。
さて、本をせっせと読むようになってきたのはいいのだけど、相変わらず偏りはあるわけで(笑)
タイトルもまんま「オカルト」。
超能力者といわれる人々を取材し書いた「職業欄はエスパー」、オウム真理教の信者を主人公とし作ったドキュメンタリー映画「A」など、ちょっと際物を採り上げる森達也氏が書いた本。
考えてみると、私はこの人の本を結構読んでいる。少しネガティヴな感じ、妙にノスタルジックな感じが嫌になり、途中で投げ出した本もあったけれど、比較的面白く読ませてもらっている。
この本は「職業欄はエスパー」の続編だったようで、「本の旅人」で連載していた「職業欄はエスパー2」を再編集し、加筆修正、書下ろしを加えたものだという。
なるほど、当初、色として「職業欄はエスパー」と同じように感じたのはその通りだったというわけか…と納得。
内容はスプーン曲げで有名な清田くんから始まって、イタコ、心霊研究科、超心理学者、スピリチュアルワーカーなどなど、いろいろな登場人物の話からなる。
最終的には「わからない」ということになるのだけれど、でも知りたいという気持ちが勝り、見つめ続けたいと著者は言っている。
オカルト好きな私としては、森達也氏のような存在はいて欲しいと思うし、こういう人がいる限りオカルティックなことが表に出されるわけで、葬り去られることはないだろうとほっとする。
面白かったのは、決まった時間に勝手に引き戸式の自動扉が開くというお寿司屋さんの話。
毎日のように来ていたお客さんが亡くなってから、その現象が始まったというのだ。それはよしとして、その現象をお寿司屋さんの職人さんたちは怖いとも思っておらず、「いつものことで」という感じなのだ。ちょっと微笑ましい感じ…^^;
それからデジタルカメラは心霊スポットなどでシャッターが下りなくなることがあると書かれた箇所があって、「あ、それは今年の1月に体験した!」と思い出して、やっぱりそういういことがあるのか…と納得したり(笑)
面白かったです。著者の姿勢も好感が持てるからなおよし、ということで。
そして、武相荘に行ったことの延長線で読んだこの本。
白洲次郎氏・正子さんの娘である牧山桂子さんが書いた本。両親と過ごした日々のことを綴っている。
始めはあまり文章を書いたことがない人が書いたと思うようなぎこちない印象があったが、進めば進むほど上手になっていって読んでいて楽しかった。
こういう人たちを両親に持つというのはどんな感じだったのだろうと思ったけれど、白洲次郎氏は遺言書どおりに潔い男性である一方で子煩悩なお父さんという一面も垣間見られて、ちょっと意外な気がしつつも人間的に本当に魅力のある人だったんだと感じられる。
一方、正子さんはドラマで見た印象と変わらずワガママな感じなのだが、それが可愛らしい雰囲気なのだ。娘からすれば面倒くさいお母さんだっただろうが、その趣味やものを見る目などを注目すれば、変わっているけれど一流のお母さんであることが理解できると思う。
しかしステータスもさることながら、裕福な人の余裕のある生活がなんとも羨ましいと感じた。
こういう余裕ある生活する人々の話を読むたびに、「ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」という言葉を思い出すのだけど、そういうことをおそらく地でやっていた人たちだろうなと思う。
しかも屈託がなかったのではないか。
生まれも育ちもよく…ということがあるかもしれないが、持って生まれた人間性というものがにじみ出ている。
こんな両親の下に生まれたということも幸せなんだな。
私にとって父親というのは早々に亡くしているので、父親像というものを想像しにくいのだけれど、白洲次郎氏のようなお父さんがいたならば…と妄想してしまう(笑)
父が健在だった頃は、高度成長期も真っ盛りで、少しは余裕があった生活をしていたのではないかと思う。社宅住まいだったけれど、家を買おうかという感じであったし、夏休みや冬休みになれば旅行もしたし、軽井沢なんてえのも行った。
思えば父にも憧れみたいなものがあったのではないかと思う。
ま、うちは育ちが育ちなだけに…いろんなことがありましたが…(笑)
ともあれ、白洲家のお話…いい話を聞いたという気になりました。
えーと牧山桂子さんのご主人が書いた白洲次郎・正子夫婦の本も最近出たようで、買って読んでみようかと思っております。
それで白洲家の話はおわりかな。
おそまつでした。
最近読んだ本 [本の感想]
最近ようやく(少しずつだけど)本が読めるようになってきた。
震災以来、衝撃があんまり大きかったために、フィクションもノンフィクションも読んでも頭に入ってこず、ただ文字を眺めているという本読みが続いてしまった。
こりゃー頭も凝り固まってしまって、視野も狭くなるってえもんです。とはいえ、自分の好みのものしか読まないですから、視野もへったくれもないんですけどね(笑)
とはいえ、「311」関連の本を読むと。
これはドキュメンタリー映画『311』を撮影した4人の監督が撮影現場(被災地)で何があったか、どう思ったかなどを語った本。
未曾有の災害を前にして、とにかく行かねばならぬという使命感から始まっている。ところが、被災地に入ってからの4人の監督は、それぞれのたち位置から模索せざるを得ないという状況となり、文章からもそれを感じることができる。
その気持ちの揺らぎからして、とてつもなく大きな災害であり、いろんな経験を積んだ人であっても、呆然と立ち尽くしてしまうほどのものだったのかと想像ができた。
ただ撮るだけでは終われない。
映画とするからには表現者であり、ドキュメンタリーであるから取材者でもある。ノンフィクションではあるけれど、脚色もされてしまうのだ。
また撮り方ひとつで意味は変化するし、編集することによって、作る側の意図も作為的に盛り込まれてしまう。
そのことも4人の監督に悩みとなり、苦しみとなったようだ。
加えて、撮られる側は被災者であり、被災地である。
何もしないでただカメラを構え、ぶしつけに話を聞こうとする人に、何を言えようか。
撮る側も、撮られる側の人の気持ちを察し、さらに苦しむのだが、撮らねばならないという使命感が想像をも拒絶しなくては…という雰囲気となる。
果たして、そんな状況からできた映画とは…。
私はこの映画は観ていない。おそらく観ないと思う。読むだけで十分想像できたから。
観て感傷的になれるかもしれないし、この4人の監督の無作法にムカついたかもしれないし、よくできた映画とも思えるかもしれない。
こういう映画は観る側が勝手にいろいろと感想を持てばいいことで、批評をする類のものではないと思っている。
そういう性質のものだろうと思う。
じゃあ、こういう映画は撮られなくてもよかったのではないか? 撮ってよかったのか? という話も出てくるかもしれない。
その点についていえば、撮っておいてよかったと後々思うのではないかと、そう感じる。
誰かが撮らないと、撮っておかないと。人間は忘れっぽいから、こういう映画がないと思い出せないだろうし。
それだけでも十分に役立つのではないかと思った。
これはコミック・エッセイ。
自分の「毒親」である母親との関係…母親のひどい独断的な性格によって生活を乱され、作者が心まで病んでしまう様子が描かれ、そしてそこから抜け出すまでの話。
何というか…親と子というのは仲良くなきゃいけない。母親というものは母性を持っているもの。愛情があるからして子どもを育てているもの…というのは幻想である、ということかな。
親が子に対して支配的になるというのは、どこの家庭でも起こりうることだと思う。
ただ、そこから親の性格や、親が受けてきた教育・躾によってずいぶん変わるわけであって、最近では経済状況も関係するだろうね~。
ある時点でバキッと親離れ・子離れができれば、言うことなしなんだ。
でもこの作者の母親のように、おそらく人格障害か発達障害を抱えた人は、手の施しようがないと思うし、きっぱりと縁を切らないと、どちらのためにもならない。
親が子を生んで育てるということは、その人の学びでもあると思うけれど、子はそこから抜け出す(羽ばたく)ということも学びであって、いつまでも親の言うとおりにしなくてはいけないなんていうことはないし、親もいつまでも子を言いなりにできるなんて思ってはいけない。
「親を捨てる」という嫌な印象の物言いになるが、「捨ててもいい」くらいの気持ちはあってもいいんじゃないの?と思う。
実際にはいろんな状況があるだろう、何ともいいがたい部分はある。
とりあえず呪縛から逃れることは大切かな。
これはなかなか面白かった(笑)
5年間の潜入取材というのだから、淡々と霊能者である女性たちから話を聞いたりしているだけのものかと思ったら、井形氏の私生活にどんどんと入り込んでくる霊能者の「ご神託」によって、彼女がどんどん振り回されていく様子が書かれている。
「事実は小説より奇なり」という言葉がしっくりくる本だった。
ご神託というのは語弊があるかな。でも、見える人からこの先を聞かざるを得ない、聞きたくて仕方がない、聞いて相談したい、という気持ちがどんどんと膨らんでいく様は、どんな人にも陥る状況かもしれないと思った。
こうも未来を聞かされてしまうと、悪い方向へは行きたくないと誰もが思うよな…と。
自分の経験からいえば、霊能者に話を聞くのは悪くはないと思う。だけど本当に霊的な何かがあるときだけにすべき。
といっても、そんなことはわからないよね(笑)
私は一度だけ頼ったことがある。それも自分でどうこうしたわけではなく、「見てもらったいいと思うよ」と紹介され、しかも紹介された人は本当に普通のそこら辺にいるような女性で、霊能者という看板を掲げて商売している人ではなかった。
とにかくわけのわからないことばかりが回りで起きて、私自身が精神的に追い詰められたときに、唯一の救いとなったのだった。
彼女の話を聞き、それからちょちょちょいと眉間の辺りを何かして、そうして聞いたことを実行してみたら、まあ、身が軽くなったこと(笑)
ただ、それは霊的なことというより、ご先祖さまが心配して状況を変えようとしたというのが真相に近く、霊的といえば霊的だけど、本来ならば自らが気づくべきことなのかもしれない、と思った。
それでもどうしようもないときはあるわけで、私にとっては救いとなった。ありがたい。
ま、そういうこともあるので一概に批判はできないし、かといって依存するまでになってはよくないと、まあ、そう思います。
ということでおしまい。
震災以来、衝撃があんまり大きかったために、フィクションもノンフィクションも読んでも頭に入ってこず、ただ文字を眺めているという本読みが続いてしまった。
こりゃー頭も凝り固まってしまって、視野も狭くなるってえもんです。とはいえ、自分の好みのものしか読まないですから、視野もへったくれもないんですけどね(笑)
とはいえ、「311」関連の本を読むと。
これはドキュメンタリー映画『311』を撮影した4人の監督が撮影現場(被災地)で何があったか、どう思ったかなどを語った本。
未曾有の災害を前にして、とにかく行かねばならぬという使命感から始まっている。ところが、被災地に入ってからの4人の監督は、それぞれのたち位置から模索せざるを得ないという状況となり、文章からもそれを感じることができる。
その気持ちの揺らぎからして、とてつもなく大きな災害であり、いろんな経験を積んだ人であっても、呆然と立ち尽くしてしまうほどのものだったのかと想像ができた。
ただ撮るだけでは終われない。
映画とするからには表現者であり、ドキュメンタリーであるから取材者でもある。ノンフィクションではあるけれど、脚色もされてしまうのだ。
また撮り方ひとつで意味は変化するし、編集することによって、作る側の意図も作為的に盛り込まれてしまう。
そのことも4人の監督に悩みとなり、苦しみとなったようだ。
加えて、撮られる側は被災者であり、被災地である。
何もしないでただカメラを構え、ぶしつけに話を聞こうとする人に、何を言えようか。
撮る側も、撮られる側の人の気持ちを察し、さらに苦しむのだが、撮らねばならないという使命感が想像をも拒絶しなくては…という雰囲気となる。
果たして、そんな状況からできた映画とは…。
私はこの映画は観ていない。おそらく観ないと思う。読むだけで十分想像できたから。
観て感傷的になれるかもしれないし、この4人の監督の無作法にムカついたかもしれないし、よくできた映画とも思えるかもしれない。
こういう映画は観る側が勝手にいろいろと感想を持てばいいことで、批評をする類のものではないと思っている。
そういう性質のものだろうと思う。
じゃあ、こういう映画は撮られなくてもよかったのではないか? 撮ってよかったのか? という話も出てくるかもしれない。
その点についていえば、撮っておいてよかったと後々思うのではないかと、そう感じる。
誰かが撮らないと、撮っておかないと。人間は忘れっぽいから、こういう映画がないと思い出せないだろうし。
それだけでも十分に役立つのではないかと思った。
これはコミック・エッセイ。
自分の「毒親」である母親との関係…母親のひどい独断的な性格によって生活を乱され、作者が心まで病んでしまう様子が描かれ、そしてそこから抜け出すまでの話。
何というか…親と子というのは仲良くなきゃいけない。母親というものは母性を持っているもの。愛情があるからして子どもを育てているもの…というのは幻想である、ということかな。
親が子に対して支配的になるというのは、どこの家庭でも起こりうることだと思う。
ただ、そこから親の性格や、親が受けてきた教育・躾によってずいぶん変わるわけであって、最近では経済状況も関係するだろうね~。
ある時点でバキッと親離れ・子離れができれば、言うことなしなんだ。
でもこの作者の母親のように、おそらく人格障害か発達障害を抱えた人は、手の施しようがないと思うし、きっぱりと縁を切らないと、どちらのためにもならない。
親が子を生んで育てるということは、その人の学びでもあると思うけれど、子はそこから抜け出す(羽ばたく)ということも学びであって、いつまでも親の言うとおりにしなくてはいけないなんていうことはないし、親もいつまでも子を言いなりにできるなんて思ってはいけない。
「親を捨てる」という嫌な印象の物言いになるが、「捨ててもいい」くらいの気持ちはあってもいいんじゃないの?と思う。
実際にはいろんな状況があるだろう、何ともいいがたい部分はある。
とりあえず呪縛から逃れることは大切かな。
([い]2-3)運命が見える女たち (ポプラ文庫 日本文学)
- 作者: 井形 慶子
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2012/06/05
- メディア: 文庫
これはなかなか面白かった(笑)
5年間の潜入取材というのだから、淡々と霊能者である女性たちから話を聞いたりしているだけのものかと思ったら、井形氏の私生活にどんどんと入り込んでくる霊能者の「ご神託」によって、彼女がどんどん振り回されていく様子が書かれている。
「事実は小説より奇なり」という言葉がしっくりくる本だった。
ご神託というのは語弊があるかな。でも、見える人からこの先を聞かざるを得ない、聞きたくて仕方がない、聞いて相談したい、という気持ちがどんどんと膨らんでいく様は、どんな人にも陥る状況かもしれないと思った。
こうも未来を聞かされてしまうと、悪い方向へは行きたくないと誰もが思うよな…と。
自分の経験からいえば、霊能者に話を聞くのは悪くはないと思う。だけど本当に霊的な何かがあるときだけにすべき。
といっても、そんなことはわからないよね(笑)
私は一度だけ頼ったことがある。それも自分でどうこうしたわけではなく、「見てもらったいいと思うよ」と紹介され、しかも紹介された人は本当に普通のそこら辺にいるような女性で、霊能者という看板を掲げて商売している人ではなかった。
とにかくわけのわからないことばかりが回りで起きて、私自身が精神的に追い詰められたときに、唯一の救いとなったのだった。
彼女の話を聞き、それからちょちょちょいと眉間の辺りを何かして、そうして聞いたことを実行してみたら、まあ、身が軽くなったこと(笑)
ただ、それは霊的なことというより、ご先祖さまが心配して状況を変えようとしたというのが真相に近く、霊的といえば霊的だけど、本来ならば自らが気づくべきことなのかもしれない、と思った。
それでもどうしようもないときはあるわけで、私にとっては救いとなった。ありがたい。
ま、そういうこともあるので一概に批判はできないし、かといって依存するまでになってはよくないと、まあ、そう思います。
ということでおしまい。
向き合っていくこと [本の感想]
もうじき、東日本大震災が起こってから1年となる。
関東地方南部の人間は、少しばかりは放射性物質におびえているかもしれないけれど、ほぼ日常の生活に戻っている。
スーパーで品不足が続いていたものも、いつの間にか潤沢に冷蔵庫に並べられるようになった。節電は、いまもなお続けているが、しかしそれでも1年前に比べれば、通常の電気使用量になりつつあるかと思う(我が家の場合は、毎月だいたい前年比10%以上の減にはなっているが)。
支援と思って塩竈の浦戸で行われていた「うらと海の子再生プロジェクト」の一口オーナー制度に参加したが、その後、牡蠣と海苔が送られてきた。もう復興へ着々と歩んでいるのだ。
野菜も、敬遠されているかもしれない茨城県産のものを気にせずに買ってきている。しかし、福島県産は残念ながらよく使うスーパーでは見ることがない。
私自身は、まだ現地に足を踏み入れてはいない。
いつか行かなくては。せめて観光でもいいから行かなくてはいけないと思っている。
そして敬遠してきた震災時の実際の映像や写真、ルポルタージュで見て、読んで知ること。
震災の1ヵ月後には、震災を記録した雑誌や本が出版されたが、恐ろしくて見ることができなかった。
津波の映像はいまも直視することができない。
一年が経とうといういま、週刊誌などで東日本大震災の特集が組まれている。それらを見ていると、やっぱり知っておくべきだと思う。実際に起きたことに向き合べきだと思った。
これは以前にも書いたことだが、震災後、ほとんど本を読むことができなくなった。「それどころじゃない」という気持ちもあったが、文字を目で追っても、意味や内容が頭に全然入ってこない。字面をただ眺めているだけになってしまった。面白いとか、興味深いとか、そんな感情が湧いてこなかった。
読めるのは、新聞や雑誌、エッセイ本、漫画、そしてブログやツイッターという具合だ。いままでの私には考えられない調子だ。
せっせと本を読んでいたのに…。
昨年末から読んでいる本が一冊あるが、まだ読み終えていないという有様。小説にいたっては、買う気も起きない。
そうはいっても…。
この本を買って読んだ。とても売れているのだそうだ。ドラマにもなった。
東北の地元新聞社で働く人々のそのときを記録したものだ。被災者でもあり、伝達者(表現者)でもある彼らがどう思い、どう報道しようとしたのか。震災当日からその後のことが書かれている。
「新聞製作、輸送、配達」の現場で何が起こっていたのか。その新聞を発行するために、関わってきた彼らがどれだけ奔走し、どれだけ苦悩したかが手に取るようにわかる。
そしてTVもインターネットもラジオもない状況で、新聞がどれだけ役に立ったか。
地元新聞社だからこその紙面が、地元に暮らす人々(被災者)の多くの拠り所となっていた。
きっとその場にいたら抱くであろう感情がたくさん書かれていた。
ここにいくつか文章を引用しようかと思ったけれど、これは読んだほうがいいと思う。
読んで自分で考えるのがいいと思う。
この本を読み終えたとき、もう少ししたらちょっとは本が読めるようになるかもしれないと思った。予感。
私は当事者ではないけれど、彼らと同じような苦悩を抱えているのだと思う。たぶん被災していなくても、体験した人は同じような苦悩を抱えているのではないかと感じた。
その苦悩が共有されたように思ったのだ。共感といってもいいのかもしれない(おこがましいが)。
同じように人というのは感じるんだ、と思ったら、他の本も読めるようになるのではないか、と予感めいて思ったのだった。
そして、震災の写真や映像も見て、ちゃんと向き合うことをしていかないと、前に向いていけないのではないかと思った。
つまりは、いまだに脅えていて、同じところに留まってしまっているということなんだ。
しっかりと受け止めているようで、受け止めていない。
原発はまだまだ収束しないし、これからまた地震も、たぶん起こると言われている。
恐怖心を払拭することはできないけれど、起きてしまったことはしっかりと受け止めなくてはいけないと思った。
そうすることによって、ようやく自分の好きなことができるようになるんだろう。
忘れてはいけない。
おまけ。
サッカー選手の本がずいぶんと出版されているが、吉田麻也選手の本は買おうと決めていた(笑)
サッカー選手のなかで、おそらく一番まともに文章が書ける人だと思っていたから。ゴーストライターもいない。口述筆記でもない。自分で書いている。
彼のブログが面白いということもあったが、中日新聞で連載しているコラムもなかなかなもの。
ロスタイムの男^^;
VVVフェンロで彼が決めたゴールシーンは、ずいぶんと鮮やかで、ハーフナーよりいいんじゃないの? なんて思わせる^^
そして一気に読んだけれど、面白かった。いい子だなあと思った。母の気分(笑)
おしまい。
関東地方南部の人間は、少しばかりは放射性物質におびえているかもしれないけれど、ほぼ日常の生活に戻っている。
スーパーで品不足が続いていたものも、いつの間にか潤沢に冷蔵庫に並べられるようになった。節電は、いまもなお続けているが、しかしそれでも1年前に比べれば、通常の電気使用量になりつつあるかと思う(我が家の場合は、毎月だいたい前年比10%以上の減にはなっているが)。
支援と思って塩竈の浦戸で行われていた「うらと海の子再生プロジェクト」の一口オーナー制度に参加したが、その後、牡蠣と海苔が送られてきた。もう復興へ着々と歩んでいるのだ。
野菜も、敬遠されているかもしれない茨城県産のものを気にせずに買ってきている。しかし、福島県産は残念ながらよく使うスーパーでは見ることがない。
私自身は、まだ現地に足を踏み入れてはいない。
いつか行かなくては。せめて観光でもいいから行かなくてはいけないと思っている。
そして敬遠してきた震災時の実際の映像や写真、ルポルタージュで見て、読んで知ること。
震災の1ヵ月後には、震災を記録した雑誌や本が出版されたが、恐ろしくて見ることができなかった。
津波の映像はいまも直視することができない。
一年が経とうといういま、週刊誌などで東日本大震災の特集が組まれている。それらを見ていると、やっぱり知っておくべきだと思う。実際に起きたことに向き合べきだと思った。
これは以前にも書いたことだが、震災後、ほとんど本を読むことができなくなった。「それどころじゃない」という気持ちもあったが、文字を目で追っても、意味や内容が頭に全然入ってこない。字面をただ眺めているだけになってしまった。面白いとか、興味深いとか、そんな感情が湧いてこなかった。
読めるのは、新聞や雑誌、エッセイ本、漫画、そしてブログやツイッターという具合だ。いままでの私には考えられない調子だ。
せっせと本を読んでいたのに…。
昨年末から読んでいる本が一冊あるが、まだ読み終えていないという有様。小説にいたっては、買う気も起きない。
そうはいっても…。
この本を買って読んだ。とても売れているのだそうだ。ドラマにもなった。
東北の地元新聞社で働く人々のそのときを記録したものだ。被災者でもあり、伝達者(表現者)でもある彼らがどう思い、どう報道しようとしたのか。震災当日からその後のことが書かれている。
「新聞製作、輸送、配達」の現場で何が起こっていたのか。その新聞を発行するために、関わってきた彼らがどれだけ奔走し、どれだけ苦悩したかが手に取るようにわかる。
そしてTVもインターネットもラジオもない状況で、新聞がどれだけ役に立ったか。
地元新聞社だからこその紙面が、地元に暮らす人々(被災者)の多くの拠り所となっていた。
きっとその場にいたら抱くであろう感情がたくさん書かれていた。
ここにいくつか文章を引用しようかと思ったけれど、これは読んだほうがいいと思う。
読んで自分で考えるのがいいと思う。
この本を読み終えたとき、もう少ししたらちょっとは本が読めるようになるかもしれないと思った。予感。
私は当事者ではないけれど、彼らと同じような苦悩を抱えているのだと思う。たぶん被災していなくても、体験した人は同じような苦悩を抱えているのではないかと感じた。
その苦悩が共有されたように思ったのだ。共感といってもいいのかもしれない(おこがましいが)。
同じように人というのは感じるんだ、と思ったら、他の本も読めるようになるのではないか、と予感めいて思ったのだった。
そして、震災の写真や映像も見て、ちゃんと向き合うことをしていかないと、前に向いていけないのではないかと思った。
つまりは、いまだに脅えていて、同じところに留まってしまっているということなんだ。
しっかりと受け止めているようで、受け止めていない。
原発はまだまだ収束しないし、これからまた地震も、たぶん起こると言われている。
恐怖心を払拭することはできないけれど、起きてしまったことはしっかりと受け止めなくてはいけないと思った。
そうすることによって、ようやく自分の好きなことができるようになるんだろう。
忘れてはいけない。
おまけ。
サッカー選手の本がずいぶんと出版されているが、吉田麻也選手の本は買おうと決めていた(笑)
サッカー選手のなかで、おそらく一番まともに文章が書ける人だと思っていたから。ゴーストライターもいない。口述筆記でもない。自分で書いている。
彼のブログが面白いということもあったが、中日新聞で連載しているコラムもなかなかなもの。
ロスタイムの男^^;
VVVフェンロで彼が決めたゴールシーンは、ずいぶんと鮮やかで、ハーフナーよりいいんじゃないの? なんて思わせる^^
そして一気に読んだけれど、面白かった。いい子だなあと思った。母の気分(笑)
おしまい。