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当事者は誰か [介護・看護・その他]

今回の義母の介護問題について、何が問題なのか、何を解決しなければいけないのか、誰が当事者なのかということをつらつらと考えていた。

どうしてこんなことを考えたかというと、猫のTBちゃんの病気の発症が絶妙なタイミングだったから。

これ以上、私が義母の介護に介入すべきではないという、TBちゃんの病気が神様の思し召しのような暗示であったように思うのだ。

TBちゃんが身をもって呈してくれたように感じている。

これ以上、私が介護に介入すると、きっと義兄嫁のご乱心が起こる。そのリスクが高まってきたように思っていた。そんなことがないように一線を引くように苦心をしていたが、そろそろ危い時期にさしかかっていた。

そんなときのTBちゃんの病気。通院や看護は大変ではあったけど、この間は、義母にも義兄夫婦にもそんなに絡まなくて済んだ。

夫T君もそうだ。仕事が忙しい時期で、その上にTBちゃんの病気。

意外なところで、大変なときにいつも忙しい義兄。この時期に出張で2週間あまり不在となっている。

つまり、この3人はこの問題の当事者ではないということ。そう感じている。

図らずも、義母がインフルエンザにかかった。施設にずっといるというのに。おそらく、通院はしているのでどこかの病院でうつったのだと思うのだが。

その義母。病気のせいで言葉が出づらくなっている。それだけでなく、インフルエンザで喉を痛め声が出なくなってしまった。

「口は災いの元」を地で行く義母は、言葉を失うという事態となっている。これはまさに当事者のひとり。

そして義兄嫁。

義母の難病のセカンドオピニオンを受けるために病院に行ったときのこと。義兄嫁は病院内でなぜか転倒をして、顔面を強打したというのだ。まるで殴られたかのように、まぶたを腫らせて、青たんを作っていた。

その顔でケアマネージャーさんとの打ち合わせの席に現れた。

この顔を見たとき、「これは義母の身代わりか?」と思ったのだけれど、それぞれの身に起こったことをつらつらと考えていくと、「そうか、この人も当事者なんだ」と思った。

そしてまさにその日は、TBちゃんの病気が発覚した日だったのだ。

暗示している。


ま~オカルティックなことかもしれないが、この義母の介護問題の根本にある問題は、おそらく義母と義兄嫁なのだと思う。解決しなくてはいけない当事者はこの2人なのだと思う。

どちらも、問題があるということは、ちっともわかっていないであろうが、この2人が変われば、円滑にことも運ぶことになるだろうなと思う。

気づけばいいけど、無理だろうな^^;




おしまい。


これも自分の覚書。nice!とコメント欄は閉じます。

そういうことか? [介護・看護・その他]

義母の介護問題は微妙な時期に入り、本人のたっての希望により、在宅介護を始めることとなった。

しかし、家族が介入するのは土日祝日のみ。平日は、ヘルパーさんの訪問、デイサービスの活用で乗り切ってもらう。まったく動けないわけではなく、痴呆もほとんどないので、部屋の改装(トイレのドアを換える)などをしたのちに、ショートステイ先から帰宅することになる。

もう心配しても仕方がないという心境になってきた。

義兄夫婦がメインとなって義母の介護のことを考えてくれているのだが、とにかく後手後手でイライラするのである。

でもこれを言っちゃー、私に介護のお鉢が回ってくるので、だんまりを決め込むしかない。なので心配するのはやめようと決意した。

そんなことを考えていたときに、ある一つの疑問が生まれた。

昔から感じていたこと。
義母はADHDの特徴を持った人だった。

どんな特徴かというと……。
・衝動的である。
・気が散りやすい。
・片付けが苦手である。
・人の話が終わるのを待てず、遮るように話しをする。
・一番になりたい。独占したい。順番が待てない。待つのが苦手。
・他人の行動に横から入り、すぐにちょっかいを出す。
・ささいなことで口論となり、我慢できないトラブルメーカー。
・モンスターペアレンツ。

自分では「言わずにいられない性格だから……」と言って、平気で人を傷つけるようなことを言うのは日常茶飯事であった。

要するに、「言いたい」という衝動を抑えられない人なのである。

そして、この人のこの特徴は一体何なんだろうと思い続けてたどり着いたのは、「大人のADHD」ということだった。


それはさておき今回、義母が難病指定されている病気であったとわかったとき、調べてみて「あれ?」と思ったことがあった。

難病のケアマニュアルにあったこの文章。

『PSP では、認知機能障害が出現し問題になることがあります。研究班の調査によりますと、認知症が出現するのは発症1~2 年目からが多いようです。
PSPでは前頭葉が障害されますが、前頭葉には動作の開始や終了したりする、いわばスイッチを入れたり切ったりする役目があります。スイッチが入らないと、動かなくなったりしゃべらなくなったりしますし,スイッチが切れないと、動作が終わらず同じ動作を続けるという症状が出る場合があります。
また「食べると危ないから食べないでね」と説明した時の返事はよくても、いざ食物が目の前にあると口に入れてしまったり、「危ないから一人で動かないでね」と説明しておいても、一人で動いて転んでしまうというようなことがしばしばあります。
わかってはいてもその場になると状況判断ができず、環境依存的に行動してしまう傾向があります。
記憶や失見当識(場所や時間などがわからなくなる)は軽いことが多いのですが、正解を得るまでに時間がかかるのが特徴です。
また病気の初期から手に触れた物をつかむ反射的な運動や、目の前にある物に手を伸ばしつかむ動作、指示されないのに相手の動作をまねる動作などを示すことがあります。』
(※PSPというのは難病の名称の略称。)

環境依存的に行動してしまう傾向というのは、義母に感じていた違和感(ADHDのような特徴)に似ているのではないかということ。

人が何かを話しているとき、義母に話しているわけではないのに、同じ言葉発しながらを横入りのようにして話し始めるということがたびたびあった。

そんなことが起こるたびに、私は口をつぐんで黙るようにしていたのだが、私が黙ると義母も黙るという。

何とも奇妙な現象に首をかしげるばかりであったのだ。

「これは一体何なんだろう」と。


そして難病となり、その難病のマニュアルを読んでいて思ったのが、PSPとADHDが似ているということであった。


でも似ているからと言って、関連性はあるのかと思って検索してみたら、こんな記事を見つけた。

パーキンソン病とADHDに共通点

PSPというのはパーキンソン病ではないが、酷似した難病だ。

そうか。神経伝達の障害が以前からあって、年老いてからはPSPになったということか。

たぶん、ではあるが……。

ドーパミンがうまく使えていない。そして前頭葉の機能障害。

ここにたどり着いて、「あ~」と大きく嘆息。

きっとこの人は、生まれたときから神経伝達の障害を持っていたのだと。


実は、できないことも多かっただろうと思う。でももともとの強い性格から、人にやってもらうことで乗り切ってきたのだろう。

人を傷つけながらも、何とかこれまでやってきたのではないかと思う。

家族が男だけだったということも、いい要因ではあったのだろう。言うことを聞いてくれる夫、息子を持って彼女はやってこられたのだ。

妙に腑に落ちるところにたどり着いた。


というわけで、この特徴を考えると心配事はたくさんあるのだが、私の知ったこっちゃない。いくら後手後手になろうとも義兄夫婦に介護をしてもらうしかないのだから。

とりあえず、何となくだけれど納得する事柄に出合ったということだ。


おしまい。

これは自分の覚書とするため、nice! とコメント欄は閉じます。

急展開 [介護・看護・その他]

なかなか更新ができず、時間ばかりが過ぎて、あっという間に1月も終わりを告げるところまできてしまいました。

早いですね。

この間、急展開となることが起きました。

義母の介護問題です。

ここのところ何となく調子の悪い日が続いていました。

どう調子が悪いかといっても、うまく説明ができないのですが、呆け始めたとかそういうことではなく、なぜか言葉が出てこない。はっきりと話せるときもあれば、ふにゃふにゃふにゃと何を言っているのかわからないときがある。

めまいがするといって救急車を呼ぶとか、いきなり交差点で転んで、近くにいた人に救出されて救急搬送されるとか、そんなことが多くなって来ました。

そんな状態が続いていたので、義兄夫婦が痴呆を疑いつつも、鬱や精神状態の問題なのか原因究明のために、痴呆や脳の専門医のところへ連れて行き検査をしたのです。

その結果……神経性の難病だったことがわかりました。

義父も晩年は特定疾患(いまは再び難病と言うようになった)に指定されていた病気を患いましたが、妻である義母までも難病指定とは、一体どんな確率? って思いましたよ。

「何と言うことでしょう」って感じです。

でも、患っていたものが一体何だったのか、ようやくわかってよかったと。

そしてその難病の治療を始めたばかりのときのこと。

ヘルパーさんが家を訪問してみれば、うんともすんとも返事がない。急遽、家に駆けつけてみれば、一階のリビングやキッチンは真っ暗。「これはまずい」と思い、二階に駆け上がって寝室に行けば、ドアが何かに引っかかって開かない。隙間からのぞいてみると、本人がベッドから落ちて倒れていて、足だけが見える。どうにかしてドアを開けようとしても開かない。声をかけても反応はない。

相当に焦りました。

万が一のことを考えて、悠長にしてはいられないとすぐに救急に電話入れ、ドアも開かないと伝えると、救急車と消防のレスキューの人が駆けつけてくれました。

そしてどうにかこうにかドアを開け、本人の様子を確認すると意識はあって、ベッドから落ちてそのまま眠ってしまった様子なのです。でもどうしてこんな状態になったのかというくらい部屋のなかがしっちゃかめっちゃかで呆然としました。そりゃドアも開かないわというくらいの物の氾濫。本人はなぜか素足でズボンもはいておらず、足はアオタンやら擦り傷だらけ。もともと片付け下手ではあるのですが、それにしてもひどい状態。

救急隊員の人も「なんでこんなことになったんだ?」と頭をひねります。

あとから考えると、難病と診断されてから使い始めた薬と、さらに眠剤を服用していたようなので、その影響でせん妄状態になったようなのです。その後、2日間くらいほぼ眠り続けたので、薬の複合的な作用がどっと出たのだろうと判断されました。

しかし、こんなことが起きては一人で家にいさせるわけにはいかず。また二階に寝室がある手前、家に連れ帰っても寝かせるところがない。う~んと考えた結果が、施設へのショートステイでした。

救急搬送された病院から、早速、急ではあるけれど受け入れてくれる施設をケアマネさんに探してもらうと、ケアマネさんが属している特別養護老人ホームが何とか受け入れられそうだということで、いったん預けることになりました。

たった一日で起きたことなのにも関わらず。急展開です。

そうして本人の様子を見てもらいながら、次のショートステイ先の手続きを開始。

そうこうしているうちに、本人も症状が改善して、家に帰りたいと言い出す始末。

もともと老人ホームへは入りたくないと言い続けていました。でも本人を見れば、もう一人暮らしは無理な状態です。かといって同居ができるような人ではないし、同居できるような状況にもありません。

ヤムナシ。

贅沢ばかりしてきた人です。それなりに納得のいくホームでなければ、文句を言い続けるでしょう。

ということでケアマネさんが薦めて来た施設は、ホテルライフな感じの介護付き有料老人ホーム。家からもそんなに遠くはないところにありました。

まずはショートステイになりますが、ついに入所の運びとなったのです。それが昨日のこと。


難病がわかったのが17日。19日には義母の携帯電話の防犯ブザーが鳴り続け、それを止めに行ったときは、まだいつもと変わっていませんでした。そしてその翌日の20日14時半過ぎにぶっ倒れているのを発見して、その日のうちに特養でのショートステイを開始。そして昨日24日に介護付き有料老人ホームに入所という流れとなりました。


実際のところ、義母の介護というのは、義兄夫婦にすべてをお願いしています。なので、なるべく口は出さずに、できることだけをやればいいと思ってきました。しかし、倒れているのを発見するのは、やっぱり近くに住んでいる私たち次男夫婦になってしまうわけで。そして介護経験の少ない兄嫁さんにはわからないこともあるでしょう。やっぱり口を出さずにはおれず、当初はどこかの病院に入院できたら、ということ義兄嫁は考えていたようですがどうにもならず、それならどこかの施設にショートステイができるのではないかと義兄嫁に伝え、ケアマネさんとのやりとりをしてもらったという……。

難病指定のこととか、身障者手帳とか、義父のときの経験もあるので、あんまり口出しをしたくなかったのですが、こちらもヤムナク口出し。

いまのところ義兄嫁も不機嫌にはなっていないので、大丈夫かな^^;



そんなこんなのバタバタな日々でありました。


富士山.jpg

初詣にようやく大雄山に行けたときの富士山です。


ネタがたまってきてしまっています……。そのうち書けるかな。



おしまい。

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悩むわあねえ。 [介護・看護・その他]

大晦日は寒川神社へ大祓え、というのが我が家の掟のように決まっているが、初詣はそのときの気分。

近所の神社に行くときもあれば、急に思い立って、直感で決めた神社やお寺に行くときもある。

基本は直感に従う。

今年は、「江ノ島かなあ~」とぼうっと思っていたんだが、昨年、まだホルモン剤をせっせと飲んでいたときに、飲んだのを忘れないようにと付けていた日記兼手帳を開いてみた。

「あ、日向薬師に行ってた」…。

忘れていた^^;

というわけで夫T君に再び車を出してもらって、伊勢原の奥地(?)の日向薬師まで行ってきた。

折りしも「初薬師」の日。そんなこととはつゆ知らず、お寺近くまで車を走らせると駐車場は一杯。あらあらと思ったものの、既に駐車していた人に、「すぐに帰りますから」と言って、その車の前に駐車させてもらう。長居はしない。
日向薬師2.JPG

日向薬師.JPG

神社へは大祓えで行っているのだから、初詣はお寺でもよかろうという感じか。宗教観のいい加減さが、全くを持ってここで発揮される(笑)

そしてお線香を焚いて、薬師さまであるから、みんなの健康を祈る。

そういえば、手術前にここに来ていたのに、手術をすることになっちゃったなあ~なんて思う。

でも、ここに来たから手術をすることになって、スッキリできたのかもといいほうにとろう。そんなことを思った。

寅年生まれの守護仏の虚空蔵菩薩さまにもお参り。
虚空.JPG

前に来たときも思ったけれど、この木がね、なんともいい。


そうして帰宅。我が家のお正月も終わり。







こんな風に、我が家は年末年始を過ごしていたのだが、近所に暮らす伯母の家で、従兄妹や従兄のお嫁さんの間で介護問題が勃発していた。昨年10月に脳梗塞で伯母が倒れ、ほぼ寝たきりの状態になってしまったのだ。

それまでは、強力な性格の持ち主の伯母は「100歳まで生きるから」と宣言をし、憎たらしいほどの生命力を見せていた。だが、それは突然やってきて、伯母は自分では食べられない、排泄できない、という状態にまでなってしまった。大正10年生まれ。今年満90歳になる。

でも強力な性格の伯母は、家族にはわめき散らすことができるほどで、意識が朦朧としていながらも怒鳴り散らし、介護する人の心を痛めつけるような寝たきり老人となる。

一番苦労しているのは、従兄のお嫁さんだ。昨年は自分の親も倒れてしまい、聞くところによれば快方に向かっているらしいが、それでも心配のタネである。その上に、同居している義母の世話をしなければならないため、相当に参ってしまっている。

さらにその苦労にも拍車をかける人がいた。それは従兄の妹。私の従姉でもあるわけだが、素人ではもう介護が無理な状態であるにも関わらず、諦めきれない従姉は伯母を従兄の家に連れ帰り、「自分で介護をする」と言い出した。

ところが娘である従姉にもわめき散らす伯母。3日ほど頑張ったらしいがギブアップ。自分で食べられない上、自分で排泄できなくなっていた伯母は膀胱をパンパンにしてしまい、病院へ逆戻り。

従兄や従兄のお嫁さんはほっとするものの、従姉はやはり諦めきれずに、今度は伯母を民間の老人ホームに入れたいと言い出し(それも有名な老人ホーム…たぶん、高い)、それを模索し始める。

その間、従兄やお嫁さんに対して、「冷たい」だのなんだのと言っているようなのだ。

私は伯母の様子を見に行っていない。なので断定はできないのだが、リハビリで立ち直れるほどの状態ではなく、老人ホームに入れたからといっていい方向へ行くとは思えない。点滴が必要で、排泄も自分ではできないとあれば、療養型の老人病院に入れるしかないと思うのだが……。

それを従兄のお嫁さんに言うと、「その通りなの。ケアマネージャーさんもそう言っていて…」と返してきた。

そして「ケアマネージャーさんも、Nさん(従姉のこと)が介護する・老人ホームに入れるというのなら、黙って見ているだけにしたらいいですよと言っているの…」と言葉を継げた。

要するにケアマネージャーさんから見ても、従姉のしたいと思うことはもう遅く、できないだろうという見立てなのだった。

ただ、ダメだと思うまでやらせてあげるしかない、と。

さらに従兄のお嫁さんに聞けば、伯母のお金をすべて従姉が管理してしまっているらしいのだった。それを聞いたとき「ああ~」と落胆するしかなかった。

やっぱりお金なのか~、と。

お金が絡むと人は意固地になる。従姉が意固地になって、介護をするだの、老人ホームに入れるだの言っているのはお金も絡んでいるのではないかと思わざるを得ない。

伯母に生きていて欲しい、という願いで諦めきれないということもあると思うが、それだけではなく、伯母が残すであろうお金に対して何としても自分を有利な立場にしておきたいと思うだろう。

そんなことが見え隠れする。



…現在、伯母は点滴で何とか生き延びている。そろそろ、胃ろうを施すかどうか考える時期にきているようだ。

これもまた意見が分かれているようで、従姉は諦めきれない…しかし、従兄家族は胃ろうを施してまで生きながらえさせるのは反対と思っている。

悩むところだろう。

私は自然な形がいいと思っているので、胃ろうには反対だ。

はからずも、今朝の朝日新聞で、胃ろうで自分が作ったものを親の胃に流し入れている人の記事が出ていた。通常の栄養剤ではそのまま排泄してしまい、体が痩せ細り、衰弱していったのだそうだ。それを見かねて、自分で作ったものを胃に入れるようになったというものだ。

すると排泄も普通になり、顔色もよくなり、体は回復してきた…という。

だが、その親子に意思の疎通ができるようになったかというと、そうではないらしい。
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000151101140001

これを読んで、まるで植物を育てているようだなあと思った。

植物でも生きてはいるのだけれど、人としてはどうなんだろうか…と思った。

生きていて欲しいと思う気持ちはわかる。でも、意思の疎通もできずに、植物のように生かされるというのはどうなんだろう。本人はどう思っているんだろう。

もし、意識がはっきりしていて、自分で胃ろうをするかどうか聞けるのであれば聞きたいところだ。

私自身は意識がはっきりしていて、胃ろうを施してでも会話が出来、さらに回復が望めるのであれば、お願いするだろう。

でも…。

伯母の場合は悩むところだ。



T君のお祖母さんは胃ろうの手術を受けた。すでに意識はなかったときの手術。その後一年くらいは生きていただろうか。胃ろうの施された意識のないお年寄りが、何人も寝かされていた病室を見たときは、切ない思いがした。

やっぱり自然のままで、自然の摂理に任せたほうがいいのではないかと思う。

食べられなくなるということは、終わりということではないのかな…。

胃ろうのことを考えると、人はいつ死ねばいいんだろうかと考えてしまう。

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震災と介護 [介護・看護・その他]

一日経ってしまったけど、1月17日の阪神淡路大震災については書いておかないと、と思う。以前も記したかもしれないが、あの頃の介護について今回は書こうと思う。

私は被災者ではないが、京都でこの地震に遭った人間である。

その頃、大阪では夫T君の母方のお祖母さん、そしてT君の父方の遠い親戚のおばさんが独り暮らしをしていた。

彼女たちに何かあるときは私たちが出動し、様子を見に行く役目を担っていた。

おそらく運が強かったからか、神様の思し召しだろう。T君のお祖母さんは、この震災が起きるまさに一日前に叔父の家(千葉県)に引き取られて行った。そのお陰で震災に遭わずに済んだのだ。

しかし遠い親戚のおばさんは引き取ることができる親戚が誰もいなかった。施設に入るか、独り暮らしを続けてもらうかの2つの選択肢しかなかった。

だがこの人は、全く何もする気がない人で、体調はいいはずなのにずっとベッドで横になっており、まるで寝たきりのようなありさまだった。

そして痴呆が始まっていたので、ときどき妄想により外へ飛び出してしまったりと、独り暮らしを続けてもらうには厳しい状態となっていた。

この頃はまだ介護保険が導入されていなかったので、ヘルパーさんを派遣してもらうには、行政による措置をしてもらわなければならなかった。そのため民生委員さんも巻き込んで市役所にお願いし、ヘルパーさんを派遣してもらうようになった。そしてそれだけでは足りないので、デイサービスに行けるように手配をしたり、ヘルパーさんが来れないときの手立てを考えなければならなかった。

最悪だったのは、施設を利用するためには医師の診断書が必要だったことだ。近くのかかりつけ医に診断書をお願いするのだが、まだ私もフルタイムで働いていたので、医師にはヘルパーさんからお願いしてもらうしかなく、ヘルパーさんとは交換日記のようなノートで連絡をやり取りして、診断書を書いてもらうことをお願いしていた。

ところがこの医師は、「薬を処方しているのに薬は飲まないし、言うことを聞かない患者だ。それに血圧が高すぎて診断書など書けない」と言ったのだ。さらに「他に施設に入りたいと思っている人はたくさんいるのだから、ちゃんとできないこんな人に書く必要はない」というようなことを言うのだった。

要するに治療も受けようとせず、ちゃんとできない人間なのだから、死んでも仕方がない、という意味合いの言葉を吐いたのだ。

これを言われたときは呆然としたが、その後、市立病院の看護相談に相談に行くと、「こういう人こそ施設で保護しなくてはいけないと思う」と言われ背中を押してもらった。

これはありがたいことだった。

そして、かかりつけ医のところへ菓子折りを持って行き、診断書を書いてくれるようにお願いしたのだった(これは悔しかった)。

そうしたことから、震災が起きた頃には特別養護老人ホームへ入所できるかもしれないというところまでこぎつけることができたのだが……。

震災翌日、その日は施設入所ができるまでヘルパーさんのいない日のつなぎに、家政婦さんをお願いすることになっていた。その初日は私もそのおばさんのところへ行って、家政婦さんと顔を合わせなくてはいけなかった。

まだ余震があるなか、おばさんのところへ行くと、昭和初期に建てられた家は何とか倒壊は免れ、室内の土壁が少し崩れた程度で済んでいた。

そして家政婦さんを待つ。

しかし待てど暮らせど家政婦さんはこない。

仕方がなく家政婦協会へ電話をすると、コーディネートしてくれていた女性が被災していた。

その事務所も被災した人が何人かいたようで、電話の向こうからは焦っている声がずいぶんと聞かれた。

「そうか」と思った。ヘルパーさんや家政婦さんだって被災しているのだ。市の職員のなかでも被災している人がいると聞いた。当然なのである。すぐそこで起こった震災だったのだから。

TVの医療ドラマでも災害を題材にしたもので、「医師の家族も被災しているんだ」というものがあったと思うが、本当にその通りで、お願いしたい相手が災害に遭ってしまって何もできなくなるということがあるのだ。




お互い様だと思った。




ただこのおばさんも運よく特別養護老人ホームへ入れることが決まり、その1ヵ月後くらいに施設入所ができたと記憶する。

(入所するまでの間に、妄想で外へ飛び出してしまい、溝にはまって救急車で運ばれ入院するということがあり大変なこともあったが、これを書き出すと長くなってしまうので…)





阪神淡路大震災の直後から数日間、私は妙にその情景をクリアに覚えている。それまでは目の前にフィルターをかけていたかのように、ぼんやりと過ごしている自分がいた。

だが地震が起きた直後から、目の前の風景がクリアに見え出したのだ。それがリアルに迫ってくる。

そのために、おばさんの介護にしても、支えてくれていた人たちの生活にしても、その背景にあるものを強く理解し実感した。

大きな災害の前ではみんな同じだ。

病気を抱えていようが、呆けていようが、健康な人でも、働き盛りの人でも、みんな同じだと思った。



そしてこのとき、「お互い様」と思えるようになったのだった。



震災の記憶(覚書)。おしまい。




この震災で命を落としてしまった方々へ、ご冥福をお祈りします。
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最期の場所を考える [介護・看護・その他]

昨晩、テレビ朝日の「報道発 ドキュメンタリー宣言」を観た。

タイトルがいまいちなところが少し腰が引けているんじゃないかと思うのだけれど、ゴールデンタイムにこういう番組を流そうと決意した(?)テレビ朝日を、まずは偉い! と思った。

くっだらないバラエティ番組ばかりで、平日のゴールデンタイムはほとんど観られるものがなく、ケーブルテレビに逃げてしまうことが常なのだが、こういう番組が増えてきてくれれば地上波民放も悪くないじゃんと思えるようになるだろうな、と思った。


昨晩の内容は、訪問看護師に光を当てたものだった。

ホームレスや身寄りのないお年寄りの終の棲家として設立された「きぼうのいえ(東京は山谷)」が舞台。

母が訪問看護、ターミナルケアを受けた身であり、私自身もそういう仕事に関わる方々に大そうお世話になったので、訪問看護師さんたちや、ホスピスを運営している方々にスポットが当たるのはうれしい。



私は結婚して数年で夫の遠い親戚の介護をすることになったが、その頃から、人の最期…。どうしたら心の安らぐ最期が迎えられるのかということを考えるようになった。

夫のその親戚というのも、ほとんど身寄りのない老人だったと言える。その人は、夫の親族の家に養女として迎え入れられ、お嬢様といった感じに育てられはしたが、結婚もせず、ずっと幼稚園の先生をして生きてきていた。そのため、両親が亡くなれば、連れ合いも存在せず、子もいなければ、兄弟・姉妹もおらず。親戚といえば、夫の父が一番近い存在だった。

そういったことから、彼女の介護要員として、私たちに白羽の矢が立ったのであった。それだけではなく、いずれはT君にお願いしたいと、そのおばあさんは言い続けていたのを知っていたので、面倒をみるのは当然のことと私は受け止めていた。

ともあれ、天涯孤独といってもいいような人であったのは事実で、おそらく自分の生い立ちを知っていたんだと思う。養女として迎え入れられたこと。出生したところはあまりいい環境ではないところだったこと。そんなことがきっと心に渦巻いていたのではないかと思う。

だから結婚もせず、ずっと一人で晩年は暮らし続けてしまったのではないか。

ずいぶんと人がよく、人にだまされもしていたが、それでも両親の残したものは守ろうとしていたし、それもあってか自宅を離れようとはしなかった。

その後、何とかだますかのように言いくるめて、特別養護老人ホームに入所させることができた。5年は穏やかにそのホームで過ごしてくれたとは思う。

そして最期は病院で寝たきりとなってしまい、何も食べられなくなり、息をひきとった。

かろうじて私たちが彼女の最期を看取ることができたが、何もしていなければ、孤独死をしていたことだろう。



そんな経験を通じて、天涯孤独の人がどうやって最期を迎えたらいいのか。自分だって、連れ合いはいるものの、子はいない。姉はいるものの、姉のところにも子はいない。T君には兄がいるけれど、そこにも子はいない。いずれ、そういう身になる可能性は大いにある。動けなくなったら、おしまいである。あとは人の善意にすがるしかない。

本音を言えば、孤独死をしても私自身はいいと思っている。ただし、その後のことで人に迷惑をかけたくないという気持ちがある。人に迷惑をかけないで、どうやって死んでいくことができるのか。最期の迎え方の難しいところだ。


「きぼうのいえ」は、身寄りのないお年寄りの最期の拠り所としてできている。そこへ、訪問看護師さんが日参し、あたたかなケアを続けている。

たぶん、だが、そこでは穏やかな最期を迎えられると思った。志を同じくしている人たちに守られて死んでいくのは、少なからず安心感を得られるだろう。

ちゃんとその人の死を受け入れてくれるであろうと思われる人たちに囲まれて死ぬということは、心置きなくというか、心残りなく逝けるのではないか、そんなことを感じた。


母の最期に付き合ってくれた訪問医師、看護師さん、保健師さん、ヘルパーさんも死を受け入れる覚悟をしていたと思う。皆、その覚悟があったから、心が乱されることなく、最期を看取ることができたんだと、いまになって思う。

「人の死を受け入れる覚悟」をしながら続ける仕事ができるというのは、すごいことだなと思う。受け止められる力がないと、きっと燃え尽きてしまうだろう。過酷な仕事だ。頭が下がる。


高校生の頃、「看護師になろうか…」と考えたときがあった。その頃は全くの芸術家志向でちゃらちゃらした人間であったが、もしかしたらそういう仕事のほうが向いているのではないか、と思ったことがあった。

結局、回りの雰囲気に流されて、勇気もなく、向いていないんじゃないかという気持ちもあり、その方向へは行かなかった。

その判断は、よかったのか悪かったのか、わからないけれど。



現在は少しの仕事はしているものの、割と自由な身。何らかの形で、人が最期に行き着く場所について考えたり、できたらいいなと思った。










つくづく、ちゃんと死ぬには、ちゃんと生きなきゃな、と思っております^^;







余談でありますが、夫の遠い親戚におばあさんの面倒をみているとき、相続のことでもめたことがありました。夫の父親と同じ立場である親戚が物言いをつけたんですね。そのとき、夫の両親は「もう面倒をみるのをやめよう」と私たちに言ったことがありました。「もめるのが嫌だから」、と。私は「え~~~!!!」と激怒に近い感情が湧き上がりまして、「そんなことはできない!」と、呆れながらも言ったことがあります。
面倒をみるのをやめるということは、そのおばあさんを見捨てるということです。「もめるのが嫌」なだけで、人を見捨てるということを考え付く夫の両親を嫌悪しました。
しかもその頃、面倒をみていたのは私たちで、夫の両親は何もしていない状況でした。物言いをつけた親戚も何もしていない。それなのに遺産相続でもめるのが嫌だからって…。単純にそんなことが起きたときに、もめないようすればいいだけの話なのに、人を捨てることを選ぼうとするその心根に呆れ返りました。
こういう人たちは「きぼうのいえ」など、そんな施設のあり方や、それに関わる人たちに共感はできないんだろうなと思います。

これはいや~な思い出。



おしまい。
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介護サービスを受けないということ。 [介護・看護・その他]

母の訪問看護が今日から始まる。契約に来てくれた看護士さんが、とてもさばさばとはっきりとモノを言ってくれる人だったので、母は大変気に入った様子だった。なので、不安なく訪問看護を受けてくれるだろうと思う。

その契約に来てくれた看護士さんにこんな話を聞いた。

「要支援1、2と認定がされても、7割の人は介護サービスを受けていないんです」と。

「これをどうするのか? と行政の担当者に訴えたんですけど、分かってもらえませんでした」と。

これってどういうことなんだろうと、はたと考えてしまった。

介護が必要だから申請をして認定を受けたのではないのか? 何のための認定なのか?

受けない理由をとりあえず考えてみた。

●要支援1、2であったら、サービスを受けてもしょうがいない。

●サービスを受けるときに負担するお金がない。

●サービスを受けるために結ばなくてはならない契約が面倒くさい。

●どういうサービスを受けていいか分からない。

この4点を思いついたんだけど、どうも最後の「どういうサービスを受けていいのか分からない」というのが一番多いのではないかと推測した。

なぜならば、T君の母親が要支援2と認定されたとき、じゃあ、どんなサービスが受けられるのか、と話をしたけれど、それを考える材料となるものがなかった。パンフレットも何もない。保健士さんに来てもらわない限りは全くわからなかったのである。

しかも説明を受けたとしても、事前に何の資料もないものだから、ビジョンも持っていないし、どういうことをして欲しいのかということを話すことも難しい。なんたってその材料がないのだから。

最近になって、義母には「デイサービスに一度来てみませんか?」というお誘いがあったそうである。お誘いがあっただけましなのだとは思うのだけど、知らなかったらデイサービスも何も受けられないのだ。どこでデイサービスをやっているかも分からない。

なんだこれ? と思った。何のための介護保険なんだ?

誰にやる気がないのか。

行政か? 介護支援事業者か? それとも介護を必要とする人か?

おそらく、介護支援事業者は忙しすぎてそんなことはできないだろう。介護を必要とする人々は、はじめから分からないのだから、やる気とかそんなことは関係ない。となるとやっぱりやる気がないのは行政なのだ。

私は、冒頭で言った看護士さんの言葉を理解した。

ここで、市の介護担当課の対応を思い出した。

義母の申請の手続きに行ったときのことである。対応をしてくれたのは若い女性。人当たりはいい。面談の約束を取り付けるにも、すんなりとできた。

次に実母の申請の手続きに行ったときのことである。義母のときと同様に若い女性が対応をしてくれたが、義母のときとは違う人だった。何となくだが、いやいや話を聞いているように見える。そして、面談の日程を決めるとき、面接を行う人員が少ないのは分かるが、明らかに先延ばしをしたいという感じが見て取れた。

スケジュール表を見ても、そんなに混みあっているようには見えなかったのに…。どういう事情かは知らないが、すいぶんと後のほうに予定を入れられてしまったのだ。

本当ならば、ここで怒ってもよかった。こちらの事情も全く聞かずに勝手に決めようとしたから。また怒った者勝ちということが往々にしてある。

急を要することであれば私も怒っていただろう。でも、そんな急を要することでもないし、怒ったら怒ったで後味が悪いしで、言われたとおりに約束をして帰ってきたのだった。

そこで思ったのは、ルーティンワークだなということ。行政職員はルーティンワークとしか捉えていない。

だいたい、行政職員は2,3年で異動する。窓口の職員もクルクルと変わる。市民との癒着などを避けるためというが、果たしてそれはいいことなのだろうか…と常に思っている。

行政職員にゼネラリストは必要なのか? 私は思う。むしろプロフェッショナルが必要だろう。小さな行政を作ろうと思えば思うほどだ。行政の仕事なんて多岐に亘るのだから、ゼネラリストを養成しようとすること自体が無理なのである。まさに税金の無駄遣いだ。

もし、癒着が起こるようなことがあれば、市民が裁けばいい。私たちが目を光らせて、防げばいいのだ。防止のための異動なんてするのはやめたほうがいい。税金の無駄遣いだ。

全く、何をやってんだか。

介護サービスを受けない人々がいるということを聞いて、益々プロフェッショナルを育てて欲しいものだと思ったのであったよ。

 

おしまい。


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<覚書>介護保険とガンの看護(それから怒り^^;) [介護・看護・その他]

また面白くもなんともない話であるが、介護保険の申請の話である。

それから後半は怒っているけど…(笑)

40歳以上になると有無を言わさず介護保険の被保険者となるが、いざ、介護保険を受けようとするにはどうしたらいいのか。

医者に行って保険証を出せば、「はいこれ」といって受けられるワケではない。

市区町村にある介護福祉課、介護関係の担当課へ行き、まずは介護保険を受けるための要介護認定を受ける申請をしなければならない。

つまり、介護保険は「要支援」あるいは「要介護」と認定されなければ受けられない保険なのである。

認定をされるには、調査員が自宅まで訪問してきて、その状況を確認する。さらに、主治医に意見書を書いてもらい、それを参考にして審査会が行われ、「要支援・要介護」にあたるかどうかが決定する。

決定すると、新しい介護保険証に要支援1だとか、要介護1だとかが書かれて送られてくる。

そしてようやく介護保険が受けられるわけであるが、だからといってすぐに介護サービスや看護が受けられるわけではない。

認定されたならば、そこで「要支援1・2」それから「要介護1~」の2つに分けられる。

「要支援1・2」は地域包括支援センターへ連絡し、そこの保健士さんと契約を行う。

「要介護1~」は居宅介護サービスの事業者などのケアマネージャーさんと契約を行う。

そして、保健士さん、ケアマネージャーさんと、どんな介護サービスがうけたいのかとか、そんなことを相談しながらケアプランとして作り上げていく。

それからやっと、介護サービスが始まるわけである。

ここに至るまで、大体は1ヶ月ほど。

うちの母にいたっては2ヶ月かかった。

*    *    *    *    *

ここからは問題点。

今年の春に介護保険が改正されたのであるが、認定の度合いに変化が生じ、介護の現場でどたばたと不具合が生じている。

例えば、今まで「要介護1」だった人が、今回の改正で「要支援2」となってしまい、ケアマネージャーさんとの契約ではなくなってしまったということがある。これは、これまでケアマネさんにケアプランを作ってもらっていたのに、地域包括支援センターの保健士さんに依頼しなくてはならなくなったということだ。

つまり、ケアプランの作成を担当するところが、2つに分かれてしまったことで、「要支援」と「要介護」のボーダーラインにいる人は、支援なのか介護なのかで、担当するところを行ったり来たりしなければいけないのである。

現場も戸惑いを隠せないようだった。

さらに、介護用ベッドの貸与。今までは要介護であれば介護用ベッドを借りられたのに、要介護2以上でなければ借りられないようになってしまったのだ。その程度というと、寝返りがうてない人なのだという。

ベッドから起き上がることが難しいということで借りていた人が、寝返りがうてるということで、介護用ベッドを貸与を認められないということになってしまった。

実際、借りていたベッドを取り上げられてしまったということも出てきている。

ではどうすればいいのか。

要するに、実費で用意しろというのだ。

お年寄りから有無を言わさず、介護保険料を取っているにも関わらず、さらに実費で用意しろなんてむちゃくちゃである。

たくさんの年金を受けていたり、資産を持っているお年寄りなんて数は少ない。確かに、日本のほとんどの資産は高齢者が持っているかのように調査結果では出てくるが、それがすべてはない。

平均で物を見ていたならば、本当の高齢者像は見えてこないのだ。実際、お金を持っている高齢者は少ない。

だんだん話がそれてしまった…失礼^^;

でね、子どもがいたらいたで、子どもに「金を出せ」というのだよ。あああ、行政のやることなんか腹が立つ。

 

さて、ガンの看護に話は移る。

もし、訪問看護を受けたいとあらば、基本的には介護保険のサービスの一部である訪問看護をお願いすることになる。

そのために、介護認定の申請を受けなければ、サービスを受けられない仕組みになっている。

ということで、うちの母も介護保険の認定を受けたのである。

しかし一方で、今年の春にやはり医療保険制度の改正が行われ、「在宅療養支援診療所」が設置されることになった。ここから往診や訪問看護を受けることができるというわけだ。

つまり、介護保険で受ける訪問看護ではなく、医療保険(健康保険)で受ける訪問看護というのもできているのである。

もともと「訪問看護ステーション」といった在宅療養のための施設もあるが、これとはまた別のもののようである。

だんだん話もややこしくなってくるな。

来年、平成19年4月には「がん対策基本法(http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/gan03/pdf/1-2.pdf)」なんていう法律も施行される。

また、新しい法律が施行されることにより、変わってくることも続々と出てくるんだろうなあと、現在、やや不安に陥っているが、結局困る点というのは以下のようなことである。

病気(がん)による「訪問看護」は介護保険なのか、医療保険なのか。

終末期医療というのは介護なのか、医療なのか。

それを判断するのは、余命なのか、状態なのか。大体、誰が判断するというのか。

現場も混乱するよ。

私とて、とりあえず今は介護保険で「訪問看護」をお願いしようと思っているが、どうも医療でもお願いできるとうことがわかって、どっちにしたらいいんじゃい、と悩み始めている始末である。

おそらく、基本は介護保険なんだろうとは思うんだけど。

 

もひとつ。

健康保険料、介護保険料を納付している私たちは、このような医療なのか介護なのかわからない、そういうものが実際にどのように行われ、そして納付しているお金がどのように使われているのか、本当は監視しなくちゃいけないよね…と思う。

ちゃんとヘルパーさんたちにお金が支払われているのかどうかもそう。

現場の混乱で、必要なところにお金が行っていないなんてことがあってはいけないのだ。

でも、それがあるような気がする。おかしな気がする。

だけどさ、わかんないんだよ、結局。

どうなっているんだろうね…。

 

話がどんどんそれて行ったけれど、日本のセイフティ・ネットも全体を見れば、ごたごたやばい状態になっているよ、ということだ。

知れば知るほど、嫌になるし、危機感を覚えるね、というお話でした。

 

ちょっと支離滅裂で失礼いたしました。

 

おしまい。


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<覚書>身体障害者手帳の申請 [介護・看護・その他]

特定疾患の申請からつづく。

身体障害者手帳を申請するに至った経緯は、以下の通り。

特定疾患の補助金を受けるために、市の保健福祉センター(保健所)へ相談し行った時、義父には「常に酸素を送らなければならない状態になる」であろうことをお話した。

すると、「身体障害者手帳の交付を受けることができると思う」と、保健所の担当者が言った。

え? と思った。

それは思いもよらなかったことであったからだ。

足が不自由であったり、手が不自由であったり、耳が聴こえなかったり…ということが身体障害者と認定される、というくらいにしか認識がなかったのである。

そのため、義父が身障者と認定されるなんて思いもしなかったし、どういう状態であれば身障者と認定されるのか、全く知らないも同然であった。

仕事で、年金制度のことはよく知っていたので、障害年金なども出てくるし、実は、よく知っているつもりでいたのだ。

でも全然。

知っているうちに入らない、と思った。

 

場所は、保健所から市の障害福祉課へと移る。

そこで義父の病気の経緯を話し、特定疾患の申請の話もし、そして身障者手帳の交付のことを聞いてきた、と障害福祉課の担当者に伝えた。

そして義父の障害はどれに当たるのか、と尋ねた。

すると、市で作成した「障害者福祉の手びき」というものを渡された。

それを読むと、なるほど、どんな補助が受けられて、どんな手当てが受けられるのか、一目瞭然に書かれている。

見れば、「呼吸器機能障害」というのがあり、「呼吸器の機能の障害により事故の身辺の日常生活活動が極度に制限されるもの」とある。

障害1級~3級に当たるようだった。

そして申請の仕方を聞く。

必要なものは…

●身体障害者診断書・意見書(※)、写真1枚、印鑑

注意事項として、上記の(※)で、「身体障害者福祉法15条第3項」に該当する医師でなければ診断書・意見書が書けないとある。

これが最も知らなかったことの一つであった。

幸いにも、義父が入院していたのは大学病院である。医師は豊富。何とかなるだろうと思って、書類を持って病院で診断書を書いてもらう手配をした。

しかしまあ、特定疾患の申請と同時にお願いしたものだから、時間がかかるったらない。

診断書に書かれた日付は8月26日。私の手元に届いたのは、9月1日(金)。そして、申請の届けをしたのが9月4日(月)。そして義父が亡くなったのは9月6日(水)だ。

がっくり。

その後、申請の取り下げを行ったが、書類を見れば審査が行われているのは9月18日…。遅い。

いやだから、義父の病状が急変したからしょうがないとは思うんだけど、時間がかかるなあというのは実感。

ちなみに義父は障害者3級と認定されていました。

 

加えて、身体障害者は…表を見ると

聴覚または平衡機能の障害、音声機能・言語機能または咀嚼機能の障害、肢体不自由、心臓・じん臓・呼吸器・ぼうこう・直腸・小腸・ヒト免疫不全ウイルスによる免疫機能障害

とある。

また、これとは別に「精神障害者」というくくりもあるので、これはまた機会があったときに…。

しかしここまでくると「障害者自立支援法」のことにまで及びそうになってしまう。

だが、やめておこう。

 

以上。次は介護保険について。

 

おそまつ。

 


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<覚書>特定疾患の申請 [介護・看護・その他]

介護の経験はあったので介護保険については、いくらか明るい私であったが、今回、義父の病気に接してみて、まだまだ知らないことはたくさんあるということがわかった。

そこで、覚書として記しておこうと思う。

こんなことは経験してみなけりゃわからないものね。実際に相談したり、申請したり、動いているときは、「何で私がこんなことをしなくちゃいけないんだよ」とぶーぶー文句をたれていたけど、転んでもタダでは起きない(笑)

この経験を活かして、こんなことがあったということを書いておこうと思ったのだ。

強いぞ、マダ~ム!(←意味不明^^;)

 

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