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覚書、活火山のこと [よく分からない]

とくに登山を趣味にしているわけではないので、どうこう言える立場ではないのですが、今回の御嶽山の噴火に関しては、せめて噴火警戒「レベル2」を出しておくべきではなかったのかと思っています。

スキーやゴルフで山の近くに行くことがあります。そんなとき、浅間山や白根山の情報を得ようと気象庁のサイトに見に行くことがあるのですが、御嶽山の情報はあったかと言ったら、ほとんど見ることがなかったように記憶していて……。(気象とか、いちいち調べるのが好きという^^;)

また、今回の噴火の直後にも気象庁のサイトを見に行きました。でも全く事前に注意を促すようなことは書かれてなく、「火山性地震があったはずなのになぜ?」と思いました。(記されていたのかもしれませんが、見つけることはできず……)。

なんか変なの。

せめて注意情報を出すことはできたのではないか。そんなことを思いました。

さらに川内原発の再稼働のことがあります。この点はちゃんと注視しなくてはいけません。

なんて言ったって「火山の噴火は事前に予測できるから」として、再稼働を認めようとしているところがあるわけなのですから。

今回の御嶽山の噴火は、気象庁は「予測はできなかった」なんて言っているし……なんなんだろうね、と思っています。


さて私の手元には、山と渓谷社が出している「自然災害ハンドブック」というものがあります。

自然災害ハンドブック

自然災害ハンドブック

  • 作者: 山と渓谷社
  • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
  • 発売日: 2004/05/26
  • メディア: 単行本


このなかに火山に関しての記述もあって、かなりためになることが書いてあります。

ちなみに、新版が出ているので、もしこれからお買いになるのならこちらのほうを……。

新版 自然災害ハンドブック

新版 自然災害ハンドブック

  • 作者: アシトチエプレス
  • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
  • 発売日: 2011/04/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


それで、2003年現在の日本の活火山は108(←煩悩の数?)あると書かれていて、「常時観測火山」は以下の20だそう。

十勝岳
雌阿寒岳
樽前岳
有珠山
北海道駒ヶ岳
吾妻山
安達太良山
磐梯山
那須岳
草津白根山
浅間山
御嶽山
伊豆東部火山群
伊豆大島
三宅島
九重山
雲仙岳
阿蘇山
霧島山
桜島

なるほど。これだけ、とにかく注意をしなければいけない火山はあると。(富士山は入っていないけど。箱根山も入っていないけど)。

ちなみに、最近の情報は気象庁のサイトのこのページへ→
これによると、2011年6月現在の活火山数は110で、「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」は47にものぼっていました。(富士山も、箱根山も入っている!)。

それだけ火山活動は活発になってきているということなのでしょう。

火山カメラ画像はここ→



私のなかで記憶に新しい雲仙普賢岳の噴火(1990年、もう24年前!?(◎д◎/)のときに被害はどうだったかというと、火砕流により44人の死者・行方不明者だったと書かれていました。

自然災害の恐ろしさを肝に銘じておかねば。

そして、自然に対しては畏敬の念を……。侮ってはいけないということです。


さらにそんな思いを深くした御嶽山の噴火でした。


今回の御嶽山の噴火で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。

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スクールカーストってなんぞ。 [よく分からない]

おもしろい本を読んだ。


教室内(スクール)カースト (光文社新書)

教室内(スクール)カースト (光文社新書)

  • 作者: 鈴木 翔
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2012/12/14
  • メディア: 新書


SNSとはなんぞ。どうして抵抗感があるのか。ということをよく分からないものだから、いまだにつらつらと考えているが、人との付き合いが得意ではないという理由を一つあげて、何となく漠然とした結論が出つつある。

そこに来てこの本。「スクールカースト」という言葉をこの本で初めて知った。要するに学校のクラス内で(無意識的に)作られるグループの、ランク付けをされた状態をスクールカーストというのだそうだ。

インターネットで調べてみれば、すでにウィキペディアにスクールカーストが語られているし、さらに調べれば、アメリカでは「ジョック(Jock)」なる学生たちのヒエラルキーの頂点に位置する存在があった。

すごいな、アメリカ(笑) 日本のスクールカーストの非じゃない。恐ろしいほどのヒエラルキーがあった。

とりあえずアメリカはさておき、日本のスクールカーストのこと。

子どもの頃から、学校のクラス内で自然とグループが作られ、ランク付けができるような階級というべきものがあったと思い出す。

人気がある上位グループとそうではない下位グループ。小学生の頃を考えれば、運動ができる子が人気があったと思い出す。

中学生になると、運動ができるのはそのままに、さらには勉強ができ、姿形がいい子に人気が集まる傾向があったと思う。そしてそういう子を中心にグループができあがったのではないかと思う。

高校生になると、ほぼ同じ学力の子たちが集まるわけで、当初はどんぐりの背比べのような感じであったが、そんななかでも可愛い子、かっこいい子が上位グループを作り出したような気がする。また、同じ中学校から入学した人たちを中心に、中学校からのランクをそのままグループ分けに生かされたこともあったと思う。

私自身は、小学校5年生で転校を経験している。その転校後、中学校を卒業するまで周囲の友人は同じ面子で変わらず学校生活を送っていた。

小学校を転校したときに、すでにその転入先の小学校でランク付けがあったと感じた。ずっと地元で暮らし、運動が得意だった子たちを中心にして上位グループが形成されていた。

その頃を知っている友人に言わせると、あなたはその上位グループにいたでしょう、と。

そう言われて、とても疑問をもった。自分ではそんな気が全くなかったのだ。自分自身が仲がいいと思っていた友人は、その人気がある子を中心としたグループ内にはいなかったし、父親がいなかったせいか、自然と父親がいない子たちと仲よくなっていた、と自分では思っている。

なので、上位グループとされる人たちを遠巻きに見ていた記憶がある。

中学時代はどうだったか。人気があるグループを形成していたのは、男女のバスケットボール部と、男子はサッカー部、野球部ではなかったか。私自身はそうした部活動をしていなかったので、そこでも人気のある上位グループには属していなかったと思う。

何をしていたかと思い出そうとするのだけれど、何だか記憶が曖昧で、もうその頃から本を読んでばかりいたような…。あ、絵を描いたりしていたかもしれない。

中学時代はプールがなかったので、得意だった水泳ができず、水泳部なんていうのもなかったから運動は諦めていたのではないかと思い出す。

それと集団で行うスポーツが苦手だったのではないかと思う。なので運動部に入らなかったのではないか。陸上部という手はあったのだけど、短距離走が普通よりちょっと早いという程度だったので、それも諦めたような気がする。

そんなわけで、たぶん人気のグループには属していなかったと思う。やっぱり遠巻きに見ていた。人気がある子たちを覚えているし、その子たちとは仲よくしていなかったから。

かといって、対極にある人気のない子たちが集まっている下位グループにも属していなかった。その子たちのことも覚えているし、仲もよくなかった。そうなると私はどこに属していたんだ?

そして高校。中学から同じ高校に上がった子は私を含め2人しかおらず、その後、一緒に入学した男の子は在学中に病死してしまうということがあり、実質的には一人でその高校に入学したような状態だった。ただ2学年上に姉がいたので、初めの一年は姉妹をひっくるめて認識されていたところはある。

姉が人気のある人だったので、妹もそういうタイプだろうと先輩たちに思われ、やれ、サッカー部のマネージャーになれ、軽音楽部に入れとか言われて、ちやほやされそうになった。「いや、私は帰宅部だから」と。それに本を読むのが好きだったから、図書委員になって図書室に入り浸るということをしていたのではないかと。そういうことを思い出す。

ただ残念ながら、その頃は勉強ができて、そこそこ運動もできたものだから、「この子は一体何?」と思われていた節がある。ついでになぜか軽音楽部にいる人気のある男の子たちと仲よくなっていて、「この子は一体何?」に拍車がかかっていたような気がする。私もよく分からない。

そういうなかでも、人気のある女の子のグループには属していなかった。いや、いま思うとそれなりに仲よくしていたのかもしれない(いまだに年賀状のやりとりをしている人がいるから)。でも、同じ中学出身の子がいなかったので、やっぱりそういうグループには入っていなかったなと、そんなことを思い出す。

ということでスクールカーストなるクラス内で作られるヒエラルキーについて、必ずやそういうグループに属することのない、一人でも平気という生徒がいる。

まずはこれが私の背景。そしてこの話の前提。

スクールカーストと言われるグループに属することでどんな意味があるのか。どんな利点があるのか。この本のなかでポイントとして整理されている。(詳しくは読んでください。おもしろいです、はい)。

『ポイント1:小学校時と中学・高校時では「スクールカースト」の認識が変化する。』
小学校ではグループは形成されず、個人間で地位の差を認識し、中学・高校でグループ間の地位の差を認識するのだという。
小学校で上位というのは「遊びの上手な子」で、下位はそうではない子と認識される。
中学・高校となると「いけてるグループ」、「いけてないグループ」というような形で認識いうことだ。

『ポイント2:上位のグループから下位のグループへの関わりが繰り返しある場合に「地位の差」は顕在化する』
その関わりはいじめではなく、笑いが起きるものであり、上位、下位のグループで空気を読んで行われることなのだそう。

そして…。
『ポイント3:「上位のグループは、学校生活を有利に過ごすことができる」、「下位のグループは、グループ単位で行動できるときはよいが、全体で行動しなければならないときに思うようにならないことがある」、「上位のグループがいなければ、下位のグループでも教室のノリを作り出すことができる。つまり下位のグループはノリを作ることが苦手なわけではない」、「上位のグループにはさまざまな特権が与えられ、さらにそれを行使する義務がある」、「上位のグループには地位の差をコントロールする人事権がある」、「下位のグループから上位のグループへ移動があった生徒にとっては、上位のグループにいることが負担になることがある」』

ま、ざっくりというと、上位グループにいれば学校の生活は楽しいという感じかな^^;

このなかで私が注目したのは、「下位のグループから上位のグループへ移動があった生徒にとっては、上位のグループにいることが負担になることがある」という点。

「負担に思う」というのはどういうものなのか考えてみた。

注目が集まっていないところから、注目の集まるところに出たときの感じか。しなくてもいい「いけてる」ポーズをしなくてはいけないという感じか。

上位グループには特権が与えられる代わりに、その義務も果たさなければいけないというのだから、そういう部分での意志をはっきりと持っていないとやっていけないということなんだろう。

そこで思ったのは、グループを形成していくときに「集まる」ことで風通しが悪くなることがある。それは、ここで挙げられた「義務」にあるのではないかということ。義務を果たしていくためには、そのなかでルールが自然と生まれるだろう。そのルールが守れないとなると、そのグループには居づらくなる。義務を果たすためにルールを守らなければならないから、今度はそれが負担になる。また、そのルールができることで縛りが強くなり風通しが悪くなる、ということがあるのではないか。

うむ。

私は、それが嫌いなんだ。面倒くさいし(笑)

さて、果たして、スクールカーストというものは健全なことなのだろうか。結局は不健全なのだろうとは思う。

グループ分けはされてもいいと思うのだ。だが、そのグループの運営のされかた、そのグループの行動によって変わってくると思う。そこで健全であるか、不健全であるかが判断されると思う。つまり、運営のされ方次第で不健全な形ができてしまうとしたら、それがスクールカースとなるだと思う。

でも、そういうグループができるお陰で、いろんな物事が円滑に動いていくということがあるのではないだろうか。

これを大きなくくりで考えると、家庭-地域-市区町村-都道府県-国―世界というグループに置き換えることもできる。

そのなかには学校や企業、病院や施設など、いろいろな組織もあるわけで、反対に言うと「縮図」ともいえる。

では、スクールカーストが作られずに、クラス内でグループが健全に運営されるためには何が必要かと言ったら、それは「成熟」なんだと思う。義務を果たすことも、ルールを守ることも負担と思わないと感じるには、成長し発達した環境と心身がなければ難しいだろう。


そもそもクラス内のいろいろなグループにはあまり属さずに、一人で行動することを好んでいたのだから、スクールカーストなるものに影響されたことはほとんどない。結局、そういったグループに属することが好きではなくて行動してきた結果がいまの私にはある。

SNSの息苦しさとか、抵抗感はこういうところからも生まれているんだろうと思う。



ここまで、いじめ、体罰、スクールカースト、SNS、、、と、いろいろとひっくるめてざっくりと考えてきてしまっているけれど、それぞれがいろいろなところへの影響があって、根が深い問題だということがよく分かる。

つくづく人、一人ひとりが地球の一つの細胞なんだと。グループができ、それが分裂し、またグループができる。地球は細胞分裂を繰り返しているんだと。

ああ、壮大になってきた(笑)

まだ、教師側から見たスクールカーストというのが、この本にはあるのだが、それはそれで追々。

おしまい。

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社会的繋がりってなんぞ。私も考えてみた。 [よく分からない]

SNSについて書こう書こうと思って早数ヶ月。筆が鈍るというか、もやもやしたものがつきまとうため書きにくかった。

でも書きたい。もやもやを晴らしたいという気持ちがある。なので重い筆を持つ…ではない。重いキーボードを打つ。

ついでを言えば、「女子にSNS疲れが顕著」という記事に後押しをされた。

そもそもリアルな生活のなかで、友達つきあいがほとんどないような私にとって、SNSでのコミュニケーションは面倒くさい(リアルな友達つきあいでさえ面倒くさい)。

そんなこともあって、根本的に玄関前で立ち尽くしてしまうような人間にピンポンを鳴らさせるのは至難の業で、語らせるにはこのように難もあるが、書きたいので許してほしい^^;

たぶん言い訳のようなものだと思う。まずは利用してみて、自分が感じたことから……。

私にとってブログというのはなぜか続けられるツールであった。どんな分量でも書き連ねられるというのが一点。文章を記事として位置づけられることが一点。写真や絵がある種の作品として掲載できることが一点。これらの点がブログを続けられる利点と思っている。

ただ、私がブログを利用するようになったとき、コメントを残したり返したりしているうちに親しくなった人たちがオフ会なるものを開催するようになった。そのとき「私には無理だな」と思っていた。だいたい大人数で集うことが精神的に無理^^; できれば個人で会うほうがいい。そのほうが話もしやすいし、大人数を相手にする面倒くささがない。
(一方、いまとなってみれば、こぎんさんには会っておけばよかったかなと思っている自分もいるが)。

そんなことが起きるようになったとき、「どうしようかなあ」という思いがあった。だが、オフ会に参加できないような私のところには、もともとコメントを残していく人も少なく、ある意味で面倒くさくない。なかなか共感を覚えにくいブログ記事だから、コメントも少ないのだろうと思っている。でも、おそらく面倒くさい相手でもある私に、よくぞコメントを残してくださる人もいる。(おつきあいいただいて感謝、感謝)。

さて、そんな私がもやもやしているSNS。

いまやFacebook、Twitterに参加する人も多く、スマートフォンがそれを下支えしているのか、反対にSNSがスマートフォンの普及に役立ったのか、どちらかはわからないが、同時期に急速に普及してきたことは間違いない。

おかげで常に繋がっているようになり、常に「端末」の画面を見なくてはならないような事態になっている。

私の初めてのSNS体験はmixiだ。そこでSNSの違和感を覚えるようになった。まずは「招待」がないと参加できないことの違和感。招待されることの特別感と優越感? 友人に招待されたことの喜びとかかな…それは変だなと思った。

こうした方法は安全なグループのなかで発言し、日記を公開するという安心感はあるのかもしれない。しかし、そんななかでも実名では私は登録しなかった。実名登録を基本としているにもかかわらず。

なぜかといえば、見つけてほしくなかったから。リアルな昔の会いたくないような友人に見つけられたくなかったのだ。

招待をしてくれた友人は、会いたくないというような人ではなかったし、「マイミク」なるもので承認した友人もその周辺で固め、それ以外の人には分からないように影を潜めた。

そうしてmixiのなかで日記を綴っていた時期もあるのだが、それはちょうど母の看護に当たっていた時期で、その日の食事のメニューなど些細なことを残すのにmixiは分量的にもマッチしていた(ブログで綴るには少なすぎる量だった)。

友人たちの残してくれるコメントも当初はありがたく、せっせとコメント返しをしていたけれど、だんだんとそれが義務のようなものになり、息苦しくなってきた。

そしてそのうち友人の一人が毎日、何度も膨大な量の日記を書くようになり、それも読む気も起きないような内容が多く、息苦しくさせる要因となった。

その友人にとってみれば、たくさんの「マイミク」なるものを持ち、その多数に向けてのものであるのだと思う。しかし、私はその人を含めても少人数のコミュニティしか作っていない。そうすると書かれた日記は、その人にとっては膨大ではないのかもしれないが、私にとっては膨大なものになってしまう。

ではマイミクなるものをやめればいいではないかとなるが、その友人はリアルな友人でもある。いまさら拒否することができない。

そんなわけもあって、そこから逃げ出すための一つの手段としてTwitterを選んだ。

「すみません。私はTwitterでつぶやくのみにします。もしそれでよかったらTwitterに来てください」と残し、mixiをやめた(アカウントは残っていて、いまもときどきその友人たちの日記やつぶやきは見ているが)。

mixiに参加してみて驚いたのは、まるで水を得た魚のように、がぜんとそのコミュニティ内で活動的になる人が出現することだった。

趣味や好みが同じような人を、そこで見つけられたということもあるのだろう。それだけではなく、招待された人のみ、承認された人のみで構成されるコミュニティに安心感を覚えてということもあったのだと思う。

その人たちが楽しそうに活動している様子を横目で見て「よかったねえ」と思う反面、自分の場違いさに戸惑ってしまった。当然のように友人は私を誘ってきたが、そこではやんわりと断った。趣味に合わなかったし、好みでもなかったから。

ではTwitterを始めたのはなぜか。

Twitterがまだ英文でしか解説がなかった頃に、いつも見ていたサイト運営者がTwitterなるものでつぶやきはじめて、おもしろいなと思って登録したことがあった。しかし登録したものの、フォローする相手もなく、どうすればおもしろくできるのかさっぱり分からずにアカウントを削除したことがあった。

ところが、それから1,2年でTwitterの日本語版が出回り、企業などが利用することで個人の利用も増え、一気に普及した。

Twitterは、とりあえず一言二言、言葉にしておきたいと思ったときに綴るのに便利だと思っている。人が読む読まないは別として、ちょっとした言葉が残せるとわかったときに、これは使ってみるのも悪くないと思って、私は使い出したのだった。

その思惑通り、使いやすいものだった。そしておもしろさを増したのは、簡単にできるフォロー、アンフォローだと思う。必要な情報を発信している人や企業をフォローするだけでいいし、必要なくなればアンフォローすればいい。よっぽど個人的なつきあいではない限りそれが簡単だった。そして、発信される情報量が限定されている。フォローする人や企業が増えれば増えるほど、つぶやきはまるで消費されているかのごとく、どんどん流されていく。

必要な情報であれば「お気に入り」にすればいいし、ほかに伝えたいと思えばリツイートすればいい。多くのフォローをグループ分けして見ることもできて、自分の好みで厳選することもできる。コメントを残す必要もない。

それは私にとって風通しのいい、気遣いの必要ないものとなり、使い続ける結果となった。(mixiでマイミクなる友人のなかで、Twitterを行っている人は結局3人にとどまっている)。

そしてFacebook。

最初からmixiと同じことが起きると思い、登録を躊躇している。ある友人にも招待された。しかし、その友人の登録されている友達関係を見て、昔から付き合いたくない人も登録されていることがわかって、それだけでも逃げ出したくなった。

Facebookに一度登録して、その後やめた理由をTwitterでつぶやいている人がいた。昔、自分をいじめていた人が友達のリクエストをしてきたから、と。逃げ出したくなる気持ちがよく分かる。

実名で登録すれば、友人も見つけやすく、またFacebookに載せる内容を見せる間柄も限定すれば、安心して利用していけるのかもしれない。

でも、mixiのときと同様に私は実名登録をせず、影を潜めたい。なぜなら会いたくもない、話したくもない人に見つけられたくないから。だったらFacebookを利用しなければいい。そう思った私はFacebookを利用していない。

ここまでがSNSに対する利用してみての私の感想。

ここからはSNSの危うさについて。

閉じたコミュニティを構成することが可能だからと、安心して(?)実名を登録すること。実名を登録することによって、見つけてもらいやすくなるからと、ご丁寧に旧姓も表示できるようになっているFacebook。

本当に安心なのかな? 安全なのかな? しかし、そんなことより本末転倒なことが起こっていることに首をかしげる。

個人情報の保護が厳しく、企業などでは保護をするために覚え書きのようなものまで取り交わすのに、SNS上においては、閉じているから大丈夫と安心してか、写真や個人を特定できる情報を何のためらいもなく発信しているのを見かける。

ところが数日前の報道で知ったが、ある催し物の現場で「写真撮影禁止」となることがあったのだという。

理由は、肖像権、プライバシー、個人情報の保護ができないから。つまりはSNSなどでその写真が掲載され、晒されたくない人までネットで晒されてしまうからというものらしい。

「へ?」と思った。写真の撮影は個人で楽しむものだろう。それを禁止する理由がSNSで流されてしまうからというのはどういうこと? と思った。

SNSに写真を出させないために、写真を撮るという個人の楽しみを奪うというわけだ。それは本末転倒なのではないか?

本当に不思議に思うのは、TVの報道番組などで写ってしまった人の顔を執拗までにモザイクをかけている様子。これまでは平気で流していたのに、肖像権やプライバシーの侵害、果ては個人情報保護にまで及ぶ気の遣いようだ。

それなのに、SNS上では平気で個人情報を晒す人がたくさんいる。「実名登録」がまさにそれ。

このギャップが私にはさっぱり理解できない。

異様に気を遣われている一方で、平気で実名を出し、自らの顔写真まで出すという行為がどうしても理解できないのだ。

もう一つ。

SNSで個人情報を知ることができるのに、リアルな隣人のことは全く分からないという事実。地域の自治会が運営されていても、自治会には参加しない。参加しても名簿が作れない。隣は何をする人ぞ、だ。本当にこれでいいのかな?

SNSではないが、インターネットを利用して話ができるアプリケーションであるLINEでは、きちんと設定をしておかないと携帯電話に登録してある電話番号がダダ漏れになるという。友達の友達だから、友達でしょ…というところから始まっているように想像できるが、友達だからって何でも許されるものではない。なのに、友達に自分が登録している電話番号を知られてしまうというのはどうなんだろうと思う。

おそらくFacebookで行っている方法と同様な感覚で繋がりを探す方法を採用したんだと思う。

知りたくない友達まで、「友達でしょ」ということか。だったらいいじゃん、って感じか。なんだかすごく軽く感じる。知られたくない友人関係もあるだろうから、きちんと設定しなくてはいけないというわけだ。

Facebookの実名登録に関しては、本当かどうかは分からないが、欧米では名前も通称のような使い方ができるため、日本で行われている実名登録とは意味合いが違うとどこかで読んだ。

もともと通称のような名前の作り方からして違うのだから、文化としての使い方も違っておかしくないのかもしれないと思う。この点はよく分からない。

または、世代的な意識の違いというのだろうか。

幼少時に固定電話が普及し、個人宅でようやく電話を設置するような時代に生まれた人間だ。その頃の電話帳などは、住所も掲載されて当たり前だった。学校で使われる名簿も、住所、電話番号、ご丁寧に保護者の職業まで記載されていた。それでも文句の一つや二つ出ていたのだろうが、そのまま全生徒に配布されていた。

友人関係でも、親密な関係であったならば、せいぜい行われていたのは交換日記だ。私は苦手だったけれど、交換日記を行っている友人は多くいた。先生に対しても、連絡帳のやりとりで交換日記的なものがあったし、それでも何ら面倒になることは少なかった。

いまはそれらが携帯電話に代わり、SNSに代わり、知らず知らずにネットを駆け巡る。

原始的な方法を用いてきた人間にとっては、そうした部分でのギャップを感じざるを得ないのか。

それにしても、個人情報の保護を神経質に行っていながらも、個人はSNSであると無邪気に個人情報を流してしまうことがどうしても解せない。

結局は、個人情報も、肖像権も、プライバシーも自己責任で管理せよということなんだろう。その自己責任が危ういから、法律というものができたのではないか。ああ、もう分からない。

しかし「社会的ネットワークサービス」とな。…何だか、大きなお世話な気がしてきた。


とはいえ、ここまで打ち込んでいても、もやもやは晴れない。

企業や商店、いろいろな団体がSNSを使う分には構いはしない。しかし個人が実名で、不特定多数の人にアプローチをしようというのがどうしても分からないのだ。

ただ、私のなかで好きになれない理由は、はっきりと一つは分かっている。こうしたネットワークサービスは、絶対に商売に利用されているから。



ということで、とりあえず今回はここでおしまい。

思いついたらまた綴ります。

あ、あとね、Facebookの創始者という人も好みでないし、Appleもあんまり好きではないんだなあ。ITで儲けている人に好きだと思う人はあんまりいないんだ、これが(笑)

農業や製造業をなめんなよ、って感じかな。


フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

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