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儲けられるのはほんの一部で、ただただ傷つくだけ。 [プンプン]

昨日からガザ地区への攻撃で心を痛めています。

全くこの争いに関係のない女性や子どもたちへの攻撃となったことに、思わず「イスラエルは何をやってんだよっ!」と声を出して怒ってしまいました。

こういう罪のない女性や子どもたちを殺してしまうことも、集団的自衛権の行使で、日本もこの攻撃に加担するかもしれないと想像しただけでも倒れそうになります。

そのイスラエルへ、日本はこんなことを始めていました。→

この「サムライインキュベート代表取締役の榊原健太郎社長」とは一体誰?

『日本政府の進める「INVEST IN JAPAN(日本に投資を)」』と政府がなぜ、この榊原なにがしという社長を登用しているのでしょうか。(ツイッターでこの情報を得ましたが、この人は元電通マンなのだそうです。安倍さんのビジネスのための仲間、といった感じでしょうか。お友達?)。

それだけでなく、いまなぜこのタイミングでイスラエル?

だいたい何? この投資話って……。日本国民が汗水たらして納めている税金を、こんな知らない人たちの手で投資をしようというのか?

安倍さんの恐ろしさを垣間見た気がします。悪魔だ。




次回書きます、と書いていた橋本治さんの寄稿記事について。

2014年7月8日朝日新聞「議論を忘れた日本人」というタイトルで書かれていました。

これを読んで、安倍さんの説明することにモヤモヤする印象を受けていた理由がわかりました。

よかった、指摘してくれる人がいて。そう思いましたよ。

たぶん「集団的自衛権の行使」がよくわかっていない人は多いと思います。

その、よくわかっていない国民に対し、治ちゃんは、……(ちょっと長くなります)

 「そういう日本国民を相手にして『集団的自衛権行使の必要』を訴えるとなったら、よほどの説明が必要になるはずですが、『集団的自衛権行使』に関しては、その説明自体に問題があるのです」と言います。

 「今度の集団的自衛権行使の問題では『集団的自衛権の行使とはこういうことです』と説明されても、その例がすぐに変えられて、『なにかを説明はしているのだが、なにを説明しているのかよく分からない』になってしまうのです。『この問題を考えて下さい』と言われて例を出されて、考えようとしようとするうちにその『例』がどこかへ行ってしまう。学校の授業なら、『分かったら次へ行きます』とか、『分からなかったら置いて行くぞ』というような段取りを教える側が踏みますが、集団的自衛権の説明にはそんな段取りがありません。分かろうとしても出された問題例がいつの間にか違うものに変えられているので、『考える』ということが無効になってしまうのです。考えられないような形で説明を展開して、それで『考えろ』と言っているようなものです。」と続きます。

要するに、説明に出される「例」がコロコロ変わるので、考えることができなくなっているというわけです。

5月に安倍さんが説明したことに対しては、「その時に出された例は、『他国で紛争が起こり、そこにいた日本人がアメリカ軍の戦艦で脱出した場合、公海上にまで出たその船を、日本の自衛隊が護衛をしに行くことが出来なくてもいいのか?』というものでした。『それが集団的自衛権の行使です』とは言わなかったけれど、いかにも『集団的自衛権の行使とはそういうことです』と言うようにしておいて、その上で『他国と共に日本が軍事力を行使することはない』とも言いました。それが6月の終わり近くなると、もう『軍事力行使の可能性』が公然と問題にされています。』と言います。

そして政府は「集団的自衛権行使を容認」と憲法解釈をしたのだから、議論をする必要はなく、「説明をするだけ」という状態になっていると言うのです。

 「『憲法解釈上、集団的自衛権の行使は可能である』という立場に政府は立ってしまいました。それが『可能』であるのなら、『これも集団的自衛権の行使である』と言うことだけで、どんなことも出来てしまいます。『軍事力の行使はしない』と言っていても、問題は『する、しない』ではなくて『可能かどうか』なのですから、『可能だ』と判断されれば、いともあっさり軍事力は行使されるでしょう。問題は、国民がそんな内閣を支持するかどうかですけれど。」と繋ぎます。

支持なんてしたくない、と思いますが、その前に「一票の格差」が解消されていません。全く、どうすりゃいいんだ、ですよ。

そうして、治ちゃんに指摘してもらえてよかった! と思ったのは、「人の質問に答えない安倍首相」。

次のくだりです。

 「『集団的自衛権の行使』を説明する首相の記者会見を受けて、5月の参議院外交防衛委員会で、『他国で紛争が起こった時、その地域の日本人がアメリカ軍の艦船で脱出する場合』と言う例にたいして、民主党の議員は『他国で実際に起こった紛争の例』をいくつか挙げた上で、「安倍首相が取り上げた例はどれほどリアリティーがあるのか分からない』という趣旨の発言をしました。これに対して安倍首相が反論をするのなら、『私の持ち出した例は十分にリアリティーのあるものだ。なぜならば――』という形であってしかるべきですが、安倍首相は『様々な事態に対処するため』と前置きして『最初から「こういう事態はない」と排除していく考え方は、「嫌なことは見たくない」というのと同じ』という答え方をしました。
 よく考えるとその答えは、『自分が持ち出したケースにはリアリティーがない』と安倍首相自身が認めているようなものです。にもかかわらず、すぐその後に『嫌なものは見たくないのはよくない』と筋違いの続け方をして答弁は続いていきます。
 尋ねられたことに対して向き合わない。その代りに近似した別の『自分の思うこと』だけを話して、議論は終了してしまう。なにかは話されたけれども、しかし疑問はそのままになっている。『なんかへんだな?』という思いが残るのは当たり前ですが、どうやら日本人は、そのこと自体を『おかしい』とは思わなくなっているらしい。少し前までなら、『答えになってないぞ!』というヤジが飛んだように思いますが、いつの間にか日本人は『答えになっているかどうか』を判断することを忘れてしまったようです。」

「思考停止した日本人」と言われるようになって久しいですが、物事の判断も曖昧になってきつつあるようです。そう橋本治さんは指摘します。

全くその通りです。

マスコミの取材を見ていても、弱い相手にはぐいぐいとえげつない質問をして答えを強要するのに、強い相手に対しては、答えすらちゃんと求めていない、ということを感じていました。

そのことに、憤りを感じるか感じないか。私は憤ってしまうんですけどね。

そして、「『集団的自衛権行使に関する与党間協議』を見ていると、日本の議論は『説明する側の一方的な説明』だけがあって、しかもそれが『これはどうですか? これならどうですか?』と選択肢を広げられる値引き交渉に近いものだとも思います。いつの間に日本人は『議論する能力』や『議論として成り立っているかどうかを判断する力』を失ってしまったのでしょう? もしかして集団的自衛権行使云々よりも、日本人がまともに議論する能力を持っていないことのほうが由々しいことだと思います。」と結びます。


この由々しき事態になってしまった要因の一つには、本を読まない、ということが挙げられると思います。読解力がなくなれば、人の言うことだって理解力が落ちるはずです。人は言葉や文章でコミュニケーションをしているのですから。

仕方のないことなんですかね。私にはわかりません。

ただ、こんなことになってしまった「恐怖心」というものは感じてもらいたいと、切に願います。

いま日本政府は、恐ろしいことを考えているんだということ。そして考えるだけではなく、実行しようともしていること。

暗澹たる気持ちになります。



イスラエルに対しては、武器を買ってほしいがための「投資話」なのだろうと想像します。

実際にガザ地区で殺されてしまっている人のことを考えてほしい。想像してほしい。



日本もアメリカのように、テロにおびえる国家になるかもしれません。

そんなことになっていいのでしょうか。

私は嫌です。



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コメント 3

toro

*東雲さま*
ありがとうございます^^
by toro (2014-07-14 08:19) 

toro

*空の下さま*
ありがとうございます。
by toro (2014-07-17 09:47) 

toro

*xml_xslさま*
ありがとうございます。
by toro (2014-08-04 10:32) 

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