震災と介護 [介護・看護・その他]
一日経ってしまったけど、1月17日の阪神淡路大震災については書いておかないと、と思う。以前も記したかもしれないが、あの頃の介護について今回は書こうと思う。
私は被災者ではないが、京都でこの地震に遭った人間である。
その頃、大阪では夫T君の母方のお祖母さん、そしてT君の父方の遠い親戚のおばさんが独り暮らしをしていた。
彼女たちに何かあるときは私たちが出動し、様子を見に行く役目を担っていた。
おそらく運が強かったからか、神様の思し召しだろう。T君のお祖母さんは、この震災が起きるまさに一日前に叔父の家(千葉県)に引き取られて行った。そのお陰で震災に遭わずに済んだのだ。
しかし遠い親戚のおばさんは引き取ることができる親戚が誰もいなかった。施設に入るか、独り暮らしを続けてもらうかの2つの選択肢しかなかった。
だがこの人は、全く何もする気がない人で、体調はいいはずなのにずっとベッドで横になっており、まるで寝たきりのようなありさまだった。
そして痴呆が始まっていたので、ときどき妄想により外へ飛び出してしまったりと、独り暮らしを続けてもらうには厳しい状態となっていた。
この頃はまだ介護保険が導入されていなかったので、ヘルパーさんを派遣してもらうには、行政による措置をしてもらわなければならなかった。そのため民生委員さんも巻き込んで市役所にお願いし、ヘルパーさんを派遣してもらうようになった。そしてそれだけでは足りないので、デイサービスに行けるように手配をしたり、ヘルパーさんが来れないときの手立てを考えなければならなかった。
最悪だったのは、施設を利用するためには医師の診断書が必要だったことだ。近くのかかりつけ医に診断書をお願いするのだが、まだ私もフルタイムで働いていたので、医師にはヘルパーさんからお願いしてもらうしかなく、ヘルパーさんとは交換日記のようなノートで連絡をやり取りして、診断書を書いてもらうことをお願いしていた。
ところがこの医師は、「薬を処方しているのに薬は飲まないし、言うことを聞かない患者だ。それに血圧が高すぎて診断書など書けない」と言ったのだ。さらに「他に施設に入りたいと思っている人はたくさんいるのだから、ちゃんとできないこんな人に書く必要はない」というようなことを言うのだった。
要するに治療も受けようとせず、ちゃんとできない人間なのだから、死んでも仕方がない、という意味合いの言葉を吐いたのだ。
これを言われたときは呆然としたが、その後、市立病院の看護相談に相談に行くと、「こういう人こそ施設で保護しなくてはいけないと思う」と言われ背中を押してもらった。
これはありがたいことだった。
そして、かかりつけ医のところへ菓子折りを持って行き、診断書を書いてくれるようにお願いしたのだった(これは悔しかった)。
そうしたことから、震災が起きた頃には特別養護老人ホームへ入所できるかもしれないというところまでこぎつけることができたのだが……。
震災翌日、その日は施設入所ができるまでヘルパーさんのいない日のつなぎに、家政婦さんをお願いすることになっていた。その初日は私もそのおばさんのところへ行って、家政婦さんと顔を合わせなくてはいけなかった。
まだ余震があるなか、おばさんのところへ行くと、昭和初期に建てられた家は何とか倒壊は免れ、室内の土壁が少し崩れた程度で済んでいた。
そして家政婦さんを待つ。
しかし待てど暮らせど家政婦さんはこない。
仕方がなく家政婦協会へ電話をすると、コーディネートしてくれていた女性が被災していた。
その事務所も被災した人が何人かいたようで、電話の向こうからは焦っている声がずいぶんと聞かれた。
「そうか」と思った。ヘルパーさんや家政婦さんだって被災しているのだ。市の職員のなかでも被災している人がいると聞いた。当然なのである。すぐそこで起こった震災だったのだから。
TVの医療ドラマでも災害を題材にしたもので、「医師の家族も被災しているんだ」というものがあったと思うが、本当にその通りで、お願いしたい相手が災害に遭ってしまって何もできなくなるということがあるのだ。
お互い様だと思った。
ただこのおばさんも運よく特別養護老人ホームへ入れることが決まり、その1ヵ月後くらいに施設入所ができたと記憶する。
(入所するまでの間に、妄想で外へ飛び出してしまい、溝にはまって救急車で運ばれ入院するということがあり大変なこともあったが、これを書き出すと長くなってしまうので…)
阪神淡路大震災の直後から数日間、私は妙にその情景をクリアに覚えている。それまでは目の前にフィルターをかけていたかのように、ぼんやりと過ごしている自分がいた。
だが地震が起きた直後から、目の前の風景がクリアに見え出したのだ。それがリアルに迫ってくる。
そのために、おばさんの介護にしても、支えてくれていた人たちの生活にしても、その背景にあるものを強く理解し実感した。
大きな災害の前ではみんな同じだ。
病気を抱えていようが、呆けていようが、健康な人でも、働き盛りの人でも、みんな同じだと思った。
そしてこのとき、「お互い様」と思えるようになったのだった。
震災の記憶(覚書)。おしまい。
この震災で命を落としてしまった方々へ、ご冥福をお祈りします。
私は被災者ではないが、京都でこの地震に遭った人間である。
その頃、大阪では夫T君の母方のお祖母さん、そしてT君の父方の遠い親戚のおばさんが独り暮らしをしていた。
彼女たちに何かあるときは私たちが出動し、様子を見に行く役目を担っていた。
おそらく運が強かったからか、神様の思し召しだろう。T君のお祖母さんは、この震災が起きるまさに一日前に叔父の家(千葉県)に引き取られて行った。そのお陰で震災に遭わずに済んだのだ。
しかし遠い親戚のおばさんは引き取ることができる親戚が誰もいなかった。施設に入るか、独り暮らしを続けてもらうかの2つの選択肢しかなかった。
だがこの人は、全く何もする気がない人で、体調はいいはずなのにずっとベッドで横になっており、まるで寝たきりのようなありさまだった。
そして痴呆が始まっていたので、ときどき妄想により外へ飛び出してしまったりと、独り暮らしを続けてもらうには厳しい状態となっていた。
この頃はまだ介護保険が導入されていなかったので、ヘルパーさんを派遣してもらうには、行政による措置をしてもらわなければならなかった。そのため民生委員さんも巻き込んで市役所にお願いし、ヘルパーさんを派遣してもらうようになった。そしてそれだけでは足りないので、デイサービスに行けるように手配をしたり、ヘルパーさんが来れないときの手立てを考えなければならなかった。
最悪だったのは、施設を利用するためには医師の診断書が必要だったことだ。近くのかかりつけ医に診断書をお願いするのだが、まだ私もフルタイムで働いていたので、医師にはヘルパーさんからお願いしてもらうしかなく、ヘルパーさんとは交換日記のようなノートで連絡をやり取りして、診断書を書いてもらうことをお願いしていた。
ところがこの医師は、「薬を処方しているのに薬は飲まないし、言うことを聞かない患者だ。それに血圧が高すぎて診断書など書けない」と言ったのだ。さらに「他に施設に入りたいと思っている人はたくさんいるのだから、ちゃんとできないこんな人に書く必要はない」というようなことを言うのだった。
要するに治療も受けようとせず、ちゃんとできない人間なのだから、死んでも仕方がない、という意味合いの言葉を吐いたのだ。
これを言われたときは呆然としたが、その後、市立病院の看護相談に相談に行くと、「こういう人こそ施設で保護しなくてはいけないと思う」と言われ背中を押してもらった。
これはありがたいことだった。
そして、かかりつけ医のところへ菓子折りを持って行き、診断書を書いてくれるようにお願いしたのだった(これは悔しかった)。
そうしたことから、震災が起きた頃には特別養護老人ホームへ入所できるかもしれないというところまでこぎつけることができたのだが……。
震災翌日、その日は施設入所ができるまでヘルパーさんのいない日のつなぎに、家政婦さんをお願いすることになっていた。その初日は私もそのおばさんのところへ行って、家政婦さんと顔を合わせなくてはいけなかった。
まだ余震があるなか、おばさんのところへ行くと、昭和初期に建てられた家は何とか倒壊は免れ、室内の土壁が少し崩れた程度で済んでいた。
そして家政婦さんを待つ。
しかし待てど暮らせど家政婦さんはこない。
仕方がなく家政婦協会へ電話をすると、コーディネートしてくれていた女性が被災していた。
その事務所も被災した人が何人かいたようで、電話の向こうからは焦っている声がずいぶんと聞かれた。
「そうか」と思った。ヘルパーさんや家政婦さんだって被災しているのだ。市の職員のなかでも被災している人がいると聞いた。当然なのである。すぐそこで起こった震災だったのだから。
TVの医療ドラマでも災害を題材にしたもので、「医師の家族も被災しているんだ」というものがあったと思うが、本当にその通りで、お願いしたい相手が災害に遭ってしまって何もできなくなるということがあるのだ。
お互い様だと思った。
ただこのおばさんも運よく特別養護老人ホームへ入れることが決まり、その1ヵ月後くらいに施設入所ができたと記憶する。
(入所するまでの間に、妄想で外へ飛び出してしまい、溝にはまって救急車で運ばれ入院するということがあり大変なこともあったが、これを書き出すと長くなってしまうので…)
阪神淡路大震災の直後から数日間、私は妙にその情景をクリアに覚えている。それまでは目の前にフィルターをかけていたかのように、ぼんやりと過ごしている自分がいた。
だが地震が起きた直後から、目の前の風景がクリアに見え出したのだ。それがリアルに迫ってくる。
そのために、おばさんの介護にしても、支えてくれていた人たちの生活にしても、その背景にあるものを強く理解し実感した。
大きな災害の前ではみんな同じだ。
病気を抱えていようが、呆けていようが、健康な人でも、働き盛りの人でも、みんな同じだと思った。
そしてこのとき、「お互い様」と思えるようになったのだった。
震災の記憶(覚書)。おしまい。
この震災で命を落としてしまった方々へ、ご冥福をお祈りします。
ハイチも大変なことになっていますね。
京都もかなりの揺れだったのではないですか?
ドラマのようですが、知人に年末に手術を受けたばかりで病院で被災した方がおりますが、自分もこの季節は闘病中だったので色々考えることも多いです。
たまにそういう言い方をする医師がいますよね。
だんママちゃんの担当医も何度か代わり(総合病院だったので)、介護保険の意見書をお願いした時に若い脳外科の医師にもう病状は安定していて治療の必要はないから他の病院へ転院して欲しいと言われたことがあります。
何だかひどくショックを受けたのを思い出しましたわ・・・。
あーそうそう防災用品、今年賞味期限切れの年なので交換しとかなくっちゃ。
by nakasama (2010-01-18 22:36)
そうでしたか。大変でしたね。自然災害、そして人災、のような出来事も世の中にはあり、その連続が人生のような気がしますね。
by もりけん (2010-01-19 02:26)
*nakasamaさま*
ブログを始めてから、毎年、この日が来ると必ず震災に遭ったときの思いを
必ず書くようにしてきました。これで何回目かなあ。
京都での揺れも相当ひどく、当初の震源は京都か? と言われていましたが
次第に状況が明らかになってくると、神戸の町が燃え、友人の家はつぶれ
電話が全く通じなくなり、、、この後、おそらく関西の2府4県では3ヶ月以上
通常のTV放送がされませんでした。すべて震災に関すること…そしてCMの
ないTV。
いま思い出すだけでも恐ろしいです。
この震災を境に、見えてくる風景も変わったように思いました。
自然災害の前では人間は無力です。受け入れることを学んだように思います。
by toro (2010-01-19 07:53)
*もりけんさま*
何もない人生っていうのはないんでしょうね。何かしら事件がある…。
学ぶことも多いですが、試されているような気もしています。
by toro (2010-01-19 07:55)
当然ながらいろんな世代が被災したのですが、
あの寒い時にテント生活したり、あればまだいい方な数日があったと思われます。
みんなよく頑張ったな~、生命力の凄さに驚くこともあったのですが・・・
今、家の母にそんなことがあったら・・・って思うと、ぞ~~っとします。
その医師の言葉も酷いもんで、そんなこと言われたら、平常心ではいられないな~。
放火するかも^^; 過激派?^^;
今のハイチは・・・無法状態だわ。そういう意味でも、日本人って、偉いわ~って思いました。
by こぎん (2010-01-19 20:54)
*こぎんさま*
本当にあのとき、被災した人々はよく頑張ったと思います。
そうなんですよね…。うちの母も生前病床で「いま地震があったら困るわ」
と言っていました。でもそれはそれで何とかなるよ、と返していたような気が
します。
最近ではだいたいの市区町村はこんな協定↓を結ぶようになっているので
施設が受け入れる体制はできているのではないかと思います。
→「災害時における要援護高齢者等の受入れに関する協定」
…あの医師はねえ。怒りを覚えるよりも、呆れるほうが先でした^^;
by toro (2010-01-20 07:35)
*mamireさま*
ありがとうございます。
by toro (2010-01-22 11:19)